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ちょうけいてんのう ちやうけいてんわう 【長慶天皇】
(1343-1394) 南北朝末期の第九八代・南朝第三代天皇(在位 1368-1383)。名は寛成。後村上天皇第一皇子。南朝不振の時期にあり、住吉・吉野・金剛寺・栄山寺など、皇居を転々とした。著に源氏物語の注釈書「仙源抄」がある。
歴代天皇陵一覧 |
長慶天皇 嵯峨東陵
(ちょうけいてんのう さがのひがしのみささぎ)
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長慶天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/01 14:51 UTC 版)
長慶天皇(ちょうけいてんのう、興国4年/康永2年(1343年) - 応永元年8月1日(1394年8月27日)は、南北朝時代の第98代天皇にして、南朝の第3代天皇(在位:正平23年/応安元年(1368年) 3月[1] - 弘和3年/永徳3年(1383年)冬)。
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- ^ a b 鴨脚本『皇代記』による。ただし、日付の記録が残っていないため、3月11日(1368年3月29日)の後村上天皇崩御を受けてのものか、あるいは先立って数日前に行われた譲位によるものか、確認しがたい。おそらく前者か。しかし、近世の南朝系図は何によってか、3月9日(1368年3月27日)受禅としているものが多いようである。
- ^ 宮内庁書陵部所蔵の吹上本『帝王系図』の巻末付紙に、「寛成」の皇子の行悟について「御母女院公重公女」とあることによる。
- ^ 『勧修寺長吏次第』。
- ^ 『新葉和歌集』春上・37に、「福恩寺前関白内大臣」が寛成親王の立太子を願って詠んだ歌がある。なお、南朝系図は正平12年(1357年)立太子とする。
- ^ 『花営三代記』応安6年(1373年)8月2日条には、「南方」(長慶天皇)が「御舎弟宮」(熙成親王)に譲位して吉野に落ち延びたとの風聞を載せている。江戸時代に在位説を主張した諸家の間では、この記事を根拠として文中2年(1373年)譲位説を採る者が多かったが、八代国治は実証学的研究の立場からこれを退けた。
- ^ 同趣旨の文書が翌年(1384年)閏9月8日付で院宣として下されており、遅くともこれより前に譲位が行われたことは確実である。また、年次不詳3月14日付で河合寺に下した綸旨には「代始」の文言があり、これを同年のものと見ることが出来れば、さらに以前となる。以上2通は無年号文書であるが、この年には弘和から元中への改元があった。改元は譲位の翌年に実施するのが通例であるから、この場合は弘和3年(1383年)の冬(10月から12月の間)に譲位が行われたものと推測されている。
さらに、村田正志は独自の鑑識眼に基づき、『阿蘇文書』弘和3年11月4日付綸旨を長慶のもの、『観心寺文書』同年12月9日付綸旨を後亀山のものと判断した上で、譲位の時期がこの両日間に絞られると主張している(『日本歴史全集第8巻 南北朝と室町』 講談社、1969年) - ^ この願文中に見える「今度雌雄」の文言は、弟・後亀山天皇との確執を示したものとも、北朝や室町幕府との対立を指したものとも言われている。
- ^ 春斎より半世紀前、慶長7年(1602年)山中長俊の作と伝える『中古日本治乱記』において既に在位説が見えているものの、その内容からは偽書の疑いもある。
- ^ 非在位説は『新葉集』の「御製」を全て後亀山天皇の作と誤認したことに基づくもので、その序に「三代の御門につかへ」とあるのをもって南朝を三代と推断した。
- ^ 村田「長慶天皇と慶寿院」(初稿:『史蹟名勝天然記念物』第15集第11号・12号(1940年)、改稿所収:『村田正志著作集 第1巻増補南北朝史論』(思文閣出版、1983年)
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