楠木正儀最後の和平交渉とは? わかりやすく解説

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楠木正儀最後の和平交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 09:33 UTC 版)

南北朝時代 (日本)」の記事における「楠木正儀最後の和平交渉」の解説

南朝筆頭武将ありながら南朝内の和平派主宰する楠木氏棟梁楠木正儀楠木正成三男)は、これまでにたびたび北朝室町幕府へ和平打診してきたが、内外からの妨害により不首尾に終わっていた。 正平16年/康安元年1361年)の第七京都合戦後両朝は既に戦い疲れ果てて今度和平機運高まってきた。かつて主戦派だった南朝後村上天皇は、和平派正儀天皇最大側近である綸旨奉者に選ぶなど和平一考するようになり、また将軍足利義詮文治派斯波高経実質的な執事起用するなど(形式上執事は高経の子斯波義将)、互いに融和路線を取るようになってきた。正平21年/貞治5年1366年8月には、貞治の変で、斯波高経義将失脚するが、将軍義詮斯波派の融和路線そのまま継続した。 ところが、翌正平22年/貞治6年1367年)、南朝側の和平交渉代表洞院実守は「北朝南朝投降する」という形式固執し、これに義詮激怒して一旦交渉決裂戦争の再開寸前にまでなってしまう。 これに対し後村上天皇急遽楠木正儀正式な南朝代表に起用し右兵衛督というそれに見合う高位官職与えた正儀和平交渉によって、義詮態度和らげたことから、初め上手くいくかに見えた。しかし、正平22年/貞治6年1367年12月7日西暦1367年12月28日)に二代将軍義詮薨去、翌正平23年/応安元年1368年3月11日南朝後村上天皇崩御、と相次いで両朝首脳世を去ったことから、この和平交渉も自然消滅してしまった。 これ以降明徳の和約による南北朝合一まで、25年もの間、南北間の和平交渉再開されなかった。正儀明徳の和約下準備をした可能性はあるものの、本人正式な合一を見る前に死去している。

※この「楠木正儀最後の和平交渉」の解説は、「南北朝時代 (日本)」の解説の一部です。
「楠木正儀最後の和平交渉」を含む「南北朝時代 (日本)」の記事については、「南北朝時代 (日本)」の概要を参照ください。

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