楠木正儀最後の和平交渉
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「南北朝時代 (日本)」の記事における「楠木正儀最後の和平交渉」の解説
南朝の筆頭武将でありながら南朝内の和平派を主宰する楠木氏棟梁楠木正儀(楠木正成の三男)は、これまでにたびたび北朝・室町幕府へ和平を打診してきたが、内外からの妨害により不首尾に終わっていた。 正平16年/康安元年(1361年)の第七次京都合戦後、両朝は既に戦いに疲れ果てて、今度は和平の機運が高まってきた。かつて主戦派だった南朝の後村上天皇は、和平派の正儀を天皇の最大の側近である綸旨奉者に選ぶなど和平も一考するようになり、また将軍足利義詮も文治派の斯波高経を実質的な執事に起用するなど(形式上の執事は高経の子斯波義将)、互いに融和路線を取るようになってきた。正平21年/貞治5年(1366年)8月には、貞治の変で、斯波高経・義将が失脚するが、将軍義詮は斯波派の融和路線をそのまま継続した。 ところが、翌正平22年/貞治6年(1367年)、南朝側の和平交渉代表洞院実守は「北朝が南朝に投降する」という形式に固執し、これに義詮が激怒して一旦交渉が決裂、戦争の再開寸前にまでなってしまう。 これに対し、後村上天皇は急遽、楠木正儀を正式な南朝代表に起用し、右兵衛督というそれに見合う高位の官職を与えた。正儀の和平交渉によって、義詮も態度を和らげたことから、初めは上手くいくかに見えた。しかし、正平22年/貞治6年(1367年)12月7日(西暦1367年12月28日)に二代将軍義詮が薨去、翌正平23年/応安元年(1368年)3月11日に南朝後村上天皇が崩御、と相次いで両朝首脳が世を去ったことから、この和平交渉も自然消滅してしまった。 これ以降、明徳の和約による南北朝合一まで、25年もの間、南北間の和平交渉は再開されなかった。正儀は明徳の和約の下準備をした可能性はあるものの、本人は正式な合一を見る前に死去している。
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