おうとう‐き〔アウタウ‐〕【桜桃忌】
桜桃忌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
太宰の初七日の頃から、太宰の友人知人の間から年に一度、皆で集まって太宰を偲ぶ会を行おうとの声が挙がった。結局、太宰の死の翌年の1949年、太宰の遺体が発見された日であり、誕生日でもある6月19日に初の桜桃忌が開催された。名称は「メロス忌」等の案も出されたものの、太宰晩年の作品「桜桃」にちなんで今官一が提案した「桜桃忌」となった。これは桜桃が太宰の故郷、津軽を代表する果物であるとともに、鮮烈な太宰の生涯と珠玉のような短編作家というイメージに合致したからであった。 当初、桜桃忌は太宰の友人知人で行われるささやかな催しであった。太宰の友人である亀井勝一郎が取り仕切り、小山清ら太宰の弟子が事務方を担い、太宰の遺族を招き、太宰の墓所である禅林寺に集って酒を酌み交わしサクランボをつまみながら、太宰の思い出話に花を咲かせるのが常であった。1949年、50年頃は太宰の死後間もなくであったこともあってかなりの参列者があったものの、その後は約30~40名の参加者となっていた。 ところが1957年頃から太宰ファンの参加が急増する。筑摩書房から太宰治全集が刊行され、中学校の国語教科書の多くに走れメロスが採用されたことによって世間では爆発的な太宰ブームが起きていた。若者を中心とした膨れ上がる参加者に従来の事務局体制では間に合わなくなって、桜桃忌は筑摩書房が主催するようになった。 1965年以降、桜桃忌の運営は筑摩書房側の要請に伴って、太宰の弟子たちが結成した世話人会が運営するようになった。また1965年以降、桜桃忌に合わせて太宰治賞の選考結果、受賞発表、受賞者の挨拶が行われるようになった。1960年代から80年代にかけて、若者を中心とする熱心な太宰ファンにより、桜桃忌は毎年数百人の参加者を集める一大イベントとなった。1960年代後半には季節の恒例行事のひとつとして桜桃忌が俳句の歳時記に掲載されるようになった。 太宰の弟子たちの高齢化に伴い、1992年を最後に世話人の会は解散したが、その後も6月19日には各地から太宰ファンが集まり、墓前で太宰を偲ぶ形で桜桃忌は続けられている。
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