村田新八
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村田 新八(むらた しんぱち、天保7年11月3日(1836年12月10日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)・政治家。
注釈
- ^ 鹿児島市加治屋町に井上良馨や篠原国幹などとともに「誕生之地」の碑がある[2]。ただし、井上良馨や篠原国幹なども含め誕生地は別であると指摘されており、この碑は加治屋町にあった学舎の名簿を参考にしたものとみられている[2]。
- ^ 「12月11日、……鹿児島藩士村田新八・同川股喜兵衛等、旧京都守護職松平容保邸附近に於て、会津藩士と闘争し、互に死傷あり」とという記述も存在する[5]。会津藩士が正しいのか、会津藩御支配の新撰組が正しいのかは不明。事件当事者の日記の方に信頼性を置いた。
- ^ 中軍は村田新八・池上四郎が率い、西郷と桐野が中軍で総指揮をとったとの記述も存在する[7]。
- ^ 村田が死の直前まで軍中で「風琴」を弾いた話は、各種の時代小説や、テレビドラマ「田原坂」(1987)、大河ドラマ「翔ぶが如く」(1990)にも出てくる。ただし、村田が弾いた「風琴」がアコーディオンなのかコンサーティーナなのかは不明であり、また、村田が家で風琴を好んだのは確かだが、彼が西南戦争の戦場でも風琴を弾いたという話は『岩崎洞中記』(1894)が初出で、西南戦争を実際に目撃した人々の記録では確認できない[9]。
出典
- ^ a b 塩満郁夫「資料紹介 村田新八の宇留間の日記と手紙について」 鹿児島県
- ^ a b 明治の偉人の誕生地、どっちが本当? 海軍元帥・井上良馨の記念碑が二つ…調べてみると大久保利通の碑も 鹿児島市 南日本新聞 2022年4月23日
- ^ a b c d 秦 2005, p. 157, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:村田新八
- ^ 『山野田政養日記』
- ^ 『維新史料綱要』
- ^ 『大西郷突囲戦史』
- ^ 『鎮西戦闘鄙言』
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.40
- ^ 『村田新八』(洋泉社 ISBN 978-4800314178)pp.175-181「「手風琴伝説」の真相」
村田新八
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 03:41 UTC 版)
宮内大丞。西郷軍幹部。洋行から帰国時に西郷の下野を知る。西郷・大久保両人と知己があり、2人の対立が一切の私欲がない争いであることを悟り、2人を体裁出来る者は誰もいないと結論付ける。開明的な思考の持ち主で大久保の内務省による日本の近代化政策にも賛成し、征韓論が愚策であることを知りつつも西郷への恩義のみという純粋な理由から下野して、西南戦争にも最後まで反対していたが西郷の決意が変わらぬと知って、共に死ぬつもりで西郷軍へ身を投じた。
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