本道路が出来るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 16:52 UTC 版)
遠野盆地から北上高地を越えて釜石に通じる仙人峠は、岩手県内の峠の中でも最も険しく、古来から人々の往来を妨げ、明治初期までは徒歩での峠越えを余儀なくされていた 。その過酷さは大人の足でも3時間はかかる上に途中には湧き水もなく、頂上の茶屋で飲料水が有料で提供されるほどであったという。大正期に入って鉄道が建設され、1939年(昭和14年)には国鉄山田線が開通したことで県都盛岡と釜石の往来は鉄道が主流となり、仙人峠の往来は激減した。しかし1947年にアイオン台風によって山田線が長期不通になると復旧まではやむを得ず仙人峠を通ることになり、加えて終戦後の食糧不足による米の買出しなどもあり、峠越えをする人の列が続いた。これらのことから花巻と釜石を結ぶ鉄道が熱望され、1950年10月に国鉄釜石線が全通。これにより人の往来は大きく改善された。 しかし、戦後のモータリゼーションの発達により、仙人峠の道路整備の遅れが再び顕在化する。この状況に岩手県は1952年、県道盛岡釜石線の改良工事に着手し、1954年には全長2,528mの仙人トンネルが貫通した。後に工事は日本道路公団に引き継がれ、1959年9月に仙人トンネルを含む約10.2 kmの仙人有料道路(通称:仙人道路)が開通して、この区間の自動車交通の利便性は飛躍的に向上した。仙人道路は、1970年4月には一般国道283号に路線指定されて国道となり、1980年4月には無料化されてますます重要性を高めた。しかしこの間の物流の高度化も目覚しく、急勾配・急カーブを多く抱えたこの区間の道路状況は交通量の増加や車両の大型化への対応力を欠き、仙人峠はまたしても現代の難所として立ち塞がった。 これらの状況を打破すべく1986年、岩手県内13市町村で「仙人峠道路改良整備促進期成同盟会」を組織。1987年には釜石市が一般国道283号の抜本的な改良工事の早期着工にはずみをつけるべく「仙人・1000人総決起大会」と銘打った市民大会を開催。続いて1988年には釜石市内230団体で作る「仙人峠道路改良整備釜石市民市民会議」も結成、運動資金は“仙人・1000円募金”など全て市民からの寄付で賄い、前述の大会を1992年まで計6回開催した。また、陳情の形態としては珍しい民間から国への独自の陳情も行った。このような官民一体の熱意を受けて仙人峠道路は1992年に事業着手された。
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