朝日放送幹部との対立
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「やしきたかじん」の記事における「朝日放送幹部との対立」の解説
朝日放送(ABC)では、1980年代後半から1990年代前半まで、『聞けば効くほどやしきたかじん』(ラジオ)のメインパーソナリティや『晴れ時々たかじん』(テレビ、いずれも生放送番組)の司会者として視聴者・リスナーから人気を博した。しかし、後述する関係者の発言などで心証を害したことから、『晴れ時々たかじん』の終了後はレギュラー番組を持たなかった。 『聞けば効くほどやしきたかじん』では、当時『必殺』シリーズ(朝日放送テレビ制作)のスポンサーだった養命酒製造の主力商品・養命酒について、「説明書には『だんだん効いてくる』と書いているけど、いつ頃から効くのかよく分からない」という単純な疑問から「全部(ボトル1本分)飲んだら吐いてしもた」と発言。この発言が同社に伝わったことから、たかじんはラジオ制作局長の勧めで始末書を提出せざるを得なくなった。さらに、別の出演日に自家用車で朝日放送本社内のラジオスタジオへ向かったところ、交通渋滞に本社警備員の不手際が重なって本番開始5分後にスタジオへ到着。スタジオへ着くなり、「駐車場へ車を入れようとしたら、警備員が理由(社内での社葬)を言わずに駐車場へ入れさせてくれなかった。毎日来てる人間がどうかも分からんような警備員を使うぐらいだから、この放送局(朝日放送)はそもそも社員教育がなっとらんのよ」「若い社員がアホなんは、上司がアホやからやろ。ひょっとすると、ここはアホから順番に社長になっていきよるのんと違う?」とまくし立てた。しかし、この放送を聴いていた当時の副社長が激怒。たかじんに朝日放送への永久出入禁止処分を課す構えを見せたことから、たかじんも「(朝日の事を)ボロクソ言うたら」と吐き捨て副社長への謝罪を拒否した。結局、当時の社長・藤井桑正が「そんなこと(出入禁止)をしたら(朝日放送の番組へ出演する)タレントがいなくなる」という一言で仲裁に入ったこともあって、たかじんは1週間の謹慎だけで放送に復帰した。 『晴れ時々たかじん』では、視聴率が低迷していた開始当初に、馴染みの鉄板焼屋で旧知の乾浩明(当時アナウンス部長)と遭遇。前々番組の『ワイドショー・プラスα』シリーズで長らく司会を務めてきた乾に対して、「いやー、視聴率が全然上がりません。番組やめたほうがよろしいですかね?」と相談したところ、乾から「そやそや、君には荷が重すぎるんやで。早よ辞めた方が君のためやで」と冗談交じりで忠告された。この忠告に対して、たかじんは「乾を見返してやる!」と奮起。結果として、同番組の視聴率を(平日午後の番組としては)異例の高さにまで押し上げた。しかし、たかじんの意向で放送を終了した直後の慰労パーティーにおいて、朝日新聞出身の幹部が挨拶の中で「なぜこんな番組が視聴率を取るのかわからない」と発言。この発言に激怒したたかじんは、この幹部のような朝日新聞出身者への反感を抱くあまり、長らく朝日放送テレビ・ラジオの番組へ出演しなかった。 以上からわかるように、朝日放送、とりわけ朝日新聞出身の幹部に関しては反感を抱いた結果となる一方で、アナウンサーや番組スタッフなど一部の人物に関しては懇意にしていた面もある。いくつかの例として、朝日放送の若手アナウンサー時代に『午後は一気に!サタデーたかじん』『聞けば効くほどやしきたかじん』で共演していた宮根誠司には、かねてから親交のあった西村嘉郎(当時社長)への直談判を通じてフリーアナウンサーへの転身(2004年4月)につなげた。さらに、龍谷大学放送部の同期生であった林伸一郎とは、林がアナウンス職を退いた後の2003年4月頃に『たかじんONE MAN』(毎日放送)の「対面ショー」という企画で久々に共演。『必殺』シリーズをはじめ、朝日放送テレビ制作のドラマのプロデュースで知られる山内久司(元専務)も、役員からの退任後に『やしきたかじんプロデュース』(テレビ大阪)や『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ) にゲストで出演していた。
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