普選と国粋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 04:21 UTC 版)
ところが、日比谷焼討事件に対する評価が対外硬派を分裂の方向に向かわせることになる。自由民権運動の流れを汲みこの動きを評価する人々は、1905年に国民倶楽部を結成して「内に立憲主義、外に帝国主義」という標語を掲げて、普通選挙を行って正しい国民の声を政治に反映させることが国家の自主・独立の確立に必要であると主張した。だが、逆に国粋主義の流れを汲みこの動きを国内における危機と見た人々は既に1900年に近衛篤麿が結成していた国民同盟会(1902年解散)の流れを汲む諸派に結集して、国家主義の強化と国民への統制強化によって国民が一致団結して自主・独立を追求すべきであると唱えた。 この路線対立は、その後の辛亥革命や対米移民問題、第一次世界大戦などで対外硬が度々再燃して、結果として対外的にはその方向に向かいながらもそれらは帝国主義や@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}大東亜共栄圏の構想に帰結し[要出典]、「対外硬」という言葉自体が色褪せる原因となっていった。
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