日清・日露戦争
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「第4師団 (日本軍)」の記事における「日清・日露戦争」の解説
日清戦争時には遼東半島に上陸、同地の警備に当たる。日露戦争時には小川又次を師団長として、南山の戦い、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦に参加した。
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日清・日露戦争
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吉備団子を全国的に有名にしたのは、山陽鉄道が日清戦争のための輸送を担ったことが大きく関係している。当時山陽線は大本営が置かれた広島市まで開通していて、全国の兵士は山陽線を通って広島に集結し宇品港から戦地に向かった。この戦争の動員による人々の移動が「おみやげ」を生み出した。戦地に赴く兵士たちが出征する際には、郷土の親戚や知人らが餞別を贈るが、運よく無事に凱旋した場合には、それらの人々に「おみやげ」を配ることになったのである。廣榮堂の主人・武田浅次郎は、自ら広島宇品港へ出かけ、桃太郎の扮装で『日本一の吉備団子』ののぼりを立て彼らを出迎え、積極的な拡販策を展開した。武田は、対外戦争に鬼退治というイメージを重ね、帰還してきた兵士たちを桃太郎になぞらえた。吉備団子は、兵士たちの多くが通過する岡山駅という地の利と、鬼を成敗した桃太郎というイメージ戦略とが複合することで急成長し、岡山を代表する名物として全国へその名を馳せるようになった。 1897年(明治30年)ごろまでにおいて、12軒の「本舗」を名乗る土産店が出現した。水廼家(水の家隆成)「日本一の吉備団子」(1901年(明治34年))をみると、「廣榮堂の原料は、黍、糯、砂糖。山月堂は糯と砂糖」であって、山月堂の方は「黍」を使っていないので「かの日本一の吉備団子とは別物なりと自称」していた。
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日清日露戦争
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日清戦争(1894年 - 1895年)直前には右目を失明していたという記録が残っているが、日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官となった。明治32年(1899年)5月16日には参謀総長に就任し、また元帥に列せられた。 1903年6月22日、参謀総長として朝鮮問題解決に関する意見書を内閣に提出した。日露戦争(1904年-1905年)では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め(1904年6月20日)、日清日露ともに日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。
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