日本人殺害事件(鵄河浦事件)に関する疑惑
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「金九」の記事における「日本人殺害事件(鵄河浦事件)に関する疑惑」の解説
詳細は「鴟河浦事件」を参照 金九は著書『白凡逸志』の中で、土田讓亮を日本軍の士官と記述したが、土田は民間人ではないかという疑惑が提起され続けてきた。当時の日本や朝鮮の記録でも土田讓亮が軍人であるとは示されていない。 2003年11月末に金完燮は、ソウル市汝矣島の国会議事堂を訪問し、国会過去真相究明特別委員会の公聴会で「金九先生は閔妃の敵を討つために罪のない日本人を殺害した後、中国に逃走した朝鮮王朝の忠犬」という内容の文書を配布した。文書を受け取った一部の国会議員と市民は、その場で彼に非難を浴びせ、検察に行って金完燮を告訴した。 2004年7月に検察は控訴状で「金九先生が1896年10月に黄海道安岳郡鵄河浦港で殺害した“土田”は、当時、朝鮮人に偽装した日本軍であるという事実が明らかになり、金九先生が土田を処断した後に逮捕され死刑判決まで受け、1919年に中国に亡命した件を、まるで逃走したかのように(金完燮は)虚偽をでっち上げた」と述べた。金完燮はソウル高等検察庁から在宅起訴処分を受けた。ソウル高等検察庁の鄭現太検事は、7月27日に白凡・金九先生の名誉を毀損した疑い(死者名誉毀損)で小説『親日派のための弁明』の作家・金完燮を在宅起訴したと発表した。また、ソウル高検は「金九が罪のない日本人を殺害した」と主張した文書を配布したとして、金完燮を虚偽事実流布罪による名誉毀損で職権起訴している。鄭現太検事は、金完燮の起訴は国史編纂委員会と国家報勲処資料を綿密に検討してから下した決定だったと話している。 1997年、昌原大学史学科教授である都珍淳は、日本外務省の資料から、土田讓亮は鷄林奨業団所属の商人だったと主張した。しかし、土田が鷄林奨業団所属であったという直接的な証拠がない上に、鷄林奨業団が土田が殺害された1896年5月に組織された事から時系列的に辻褄が合わず、商人説は根拠に乏しかった。都珍淳も後に自ら主張を撤回している。 韓国の記者であり元国会議員である孫世一は、著書『李承晩と金九 新版』の中で、土田という名の日本人は対馬出身の民間人に過ぎなかったという意見を表明した。
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