日本におけるスペンサーの受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 14:45 UTC 版)
「ハーバート・スペンサー」の記事における「日本におけるスペンサーの受容」の解説
1880~90年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであった。たとえば、1860年の『教育論』は、尺振八の訳で1880年に『斯氏教育論』と題して刊行され、「スペンサーの教育論」として広く知られた。その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた。板垣退助は『社会静学』(松島剛訳『社会平権論』)を「民権の教科書」と評している。1883年、森有礼の斡旋で、板垣退助がスペンサーと会見した時、板垣が「白色人種の語る自由とは、実質としては有色人種を奴隷の如く使役した上に成り立ってる自由であり、これは白人にとって都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言したことに対して、スペンサーは、「封建制をようやく脱した程度の当時の未だ憲法をも有していない日本が、白人社会と肩を並べて語るには傲慢である」と論を退け、板垣の発言を「空理空論」となじり、尚も反論しようとする板垣の発言を制し「NO、NO、NO…」と席を立ち喧嘩別れのようになる一幕があった。このようなことがあった事から、日本では欧米諸国に追いつくよう、社会制度の研究が緊急課題となり1886年には浜野定四郎らの訳によるスペンサーの『政法哲学』が出版されるようになった。 スペンサーの愛読者であった哲学者の井上哲次郎は1880年代のドイツ留学中に、晩年身寄りもなくイギリスの地方を転々としていたスペンサーを探し、寄寓先のグラント・アレン宅までわざわざ訪ね、面会の記念に帽子と傘をもらった話を回顧録に残している。
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