日中戦争開戦と南京空襲
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「ミニー・ヴォートリン」の記事における「日中戦争開戦と南京空襲」の解説
1937年7月に盧溝橋事件が起きると、南京は抗日戦争の準備で騒然となった。金陵女学院の校務指導を任されていたヴォートリンは、校内に生徒が避難するための地下室や防空壕を用意するなど、空襲への備えを進めた。同年8月13日には第二次上海事変がはじまり、15日から日本海軍航空隊による 南京への空爆が開始された。米国大使館は在南京の米国人に南京から退避するよう通達したが、ヴォートリンは、金陵女学院や隣保学校、近隣住民との過去があり、女性である自分は危機にある子供を見捨ててはいけない、として、南京市内に残留することを決意した。その後も日本軍による空襲は続いたため、9月の新学期から金陵女学院の学生を上海・武昌・成都など比較的安全な他の都市のミッションスクールに緊急編入させることになった。学生の引率・指導のため教職員も南京からそれぞれの任地へ赴任していき、金陵女学院にはヴォートリンと若干の教職員・理事のみが残ることになった。 1937年9月19日以降、日本軍による空爆は激しさを増したが、ヴォートリンは空襲の合間を縫って南京に残された貧困層の児童を対象に隣保小学校の授業を続けた。同月下旬から10月にかけて、上海戦域から鉄道で南京に送られてくる負傷兵の数、南京に流入する難民の数が増えていった。上海戦線の悲惨な様子が伝えられ、中国軍の退却、撤退のニュースが伝えられるようになった。一方で、日本軍による南京への空爆は続き、市内の公共施設が爆撃を受け、難民に死傷者が出るなどの被害も発生、市外へ避難する住民も増えて、市街地は「死んだ街」のようになっていった。 1937年11月になると中国軍は総崩れとなって上海から撤退し、日本軍の南京への侵攻は時間の問題となった。同月20日に蒋介石国民政府は首都を南京から重慶に移すことを正式に宣布、前後して政府の中央諸機関や政府関係者は次の暫定首都である武漢へと移転していった。同月16日に中国軍5万が南京に到着し、20日唐生智が南京防衛軍司令長官に任命され、防衛戦の準備にあたった。 この頃、最終的に南京に止まった米国人の宣教師、大学講師らの間で難民区を設定する計画が急速に進展し、1937年11月17日に主要メンバーが集まって南京安全区国際委員会の結成を決定、同月22日に声明を発表して日本・中国の当局に同区を承認するよう通告、両当局から承認の回答を受けた。金陵女学院や付近の金陵大学などを含む南京城内の西北部に難民区が設営されることとなり、金陵女学院を難民収容所として開放することが決まって、ヴォートリンらは難民区設営の準備に追われた。
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