日中戦争開戦と南京空襲とは? わかりやすく解説

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日中戦争開戦と南京空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 06:22 UTC 版)

ミニー・ヴォートリン」の記事における「日中戦争開戦と南京空襲」の解説

1937年7月盧溝橋事件起きると、南京抗日戦争準備騒然となった。金陵女学院の校務指導任されていたヴォートリンは、校内生徒避難するための地下室防空壕用意するなど、空襲への備え進めた同年8月13日には第二次上海事変はじまり、15日から日本海軍航空隊による 南京への空爆開始された。米国大使館は在南京米国人南京から退避するよう通達したが、ヴォートリンは、金陵女学院や隣保学校近隣住民との過去があり、女性である自分危機ある子供見捨ててはいけない、として、南京市内に残留することを決意したその後日本軍による空襲続いたため、9月新学期から金陵女学院の学生上海武昌成都など比較安全な他の都市ミッションスクールに緊急編入させることになった学生引率指導のため教職員南京からそれぞれの任地赴任していき、金陵女学院にはヴォートリンと若干教職員理事のみが残ることになった1937年9月19日以降日本軍による空爆激しさ増したが、ヴォートリンは空襲合間を縫って南京残され貧困層児童対象隣保小学校授業続けた同月下旬から10月にかけて、上海戦域から鉄道南京送られてくる負傷兵の数、南京流入する難民の数が増えていった。上海戦線の悲惨な様子伝えられ中国軍退却撤退ニュース伝えられるようになった一方で日本軍による南京への空爆続き市内公共施設爆撃を受け、難民死傷者が出るなどの被害発生市外避難する住民増えて市街地は「死んだ街」のようになっていった。 1937年11月になると中国軍総崩れとなって上海から撤退し日本軍南京への侵攻時間の問題となった同月20日蒋介石国民政府首都南京から重慶に移すことを正式に宣布前後して政府中央機関政府関係者次の暫定首都である武漢へと移転していった。同月16日中国軍5万南京到着し20日唐生智南京防衛軍司令長官任命され防衛戦準備あたったこの頃最終的に南京止まった米国人宣教師大学講師らの間で難民区を設定する計画急速に進展し1937年11月17日に主要メンバー集まって南京安全区国際委員会結成決定同月22日声明発表して日本・中国当局に同区を承認するよう通告両当局から承認回答受けた金陵女学院や付近金陵大学などを含む南京城内の西北部難民区が設営されることとなり、金陵女学院を難民収容所として開放することが決まって、ヴォートリンらは難民設営準備追われた。

※この「日中戦争開戦と南京空襲」の解説は、「ミニー・ヴォートリン」の解説の一部です。
「日中戦争開戦と南京空襲」を含む「ミニー・ヴォートリン」の記事については、「ミニー・ヴォートリン」の概要を参照ください。

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