日中文化人らとの交流
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1920年には上海YMCA主催の夏期講座を計画し、第1回の講師に森本厚吉、成瀬無極、賀川豊彦を招いたのがきっかけで、それ以来数年間にわたり、吉野作造をはじめとする文化人が上海を訪れるようになった。内山はその夏期講座の損失を負担するとともに、世話役として奔走した。1924年には、魏盛里の自宅の真向いにある空家を買い求め、独立した書店を営むようになり、そのころから内山書店は日中文化人や文芸愛好家らのたまり場となるようになった。やがて、それが誰もが自由に集って、自由に語り合える場となり、「文芸漫談会」と呼ばれるようになった。その中には、田漢、郁達夫、郭沫若などの日本留学経験者である中国知識人も含まれていた。1926年には谷崎潤一郎が2度目の上海訪問中、内山書店を訪れ、その著作で紹介したこともあり、日本からやってくる文化人は内山書店を窓口にして中国の知識人と交流を持つのが習わしとなった。1927年夏には、谷崎の紹介で上海を訪れた佐藤春夫に対しても、内山は谷崎の場合と同様に佐藤が中国の文学者と会うための骨折りをしている。
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