日中合同登山隊遭難とは? わかりやすく解説

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日中合同登山隊遭難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 08:54 UTC 版)

梅里雪山」の記事における「日中合同登山隊遭難」の解説

1991年1月4日日中合同学術登山17名(日本11名、中国6名)が登頂目前控えたキャンプ地で、雪崩直撃受けて全滅する遭難事故発生中国登山史でも最悪犠牲者数となった登山隊は前年12月始めにカワカブの麓にベースキャンプ設置し順調に上部キャンプ地延ばしていった。12月末にはカワカブの山頂まで270mのポイント到達する17名の隊員標高5,100m付近に設置され第3キャンプ集合し頂上アタックへの態勢整えた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}キャンプ地斜面から充分に離れており、雪崩危険性少ないと思われた[要出典]。年が明けた1月1日から降雪始まり1月3日には積雪量は1mを超える現地時間1月3日22時の無線交信最後に第3キャンプとの連絡途絶えた直ち日中合同救助隊現地派遣されるが、折から悪天候為に第3キャンプ接近する事は不可能だったその後航空写真分析キャンプ地雪崩による大量埋め尽くされている事が確認され17人の生存絶望的となった生存者がいないため詳細な状況不明だが、京都大学設置され事故調査委員会では、1月3日までに降った大雪大規模な泡雪崩発生しキャンプ地直撃したのだろうと推察された。1996年派遣され日中合同登山隊は事故後、初め第3キャンプ到達するが、遺体テント遺品発見には至らなかった。 現場には遭難地点付近基点として山麓流下する氷河流れがあり、1998年8月以降山麓流れ氷河末端から、雪面下に埋もれた後に氷河流入した遺体遺物続々現れた。現地村人捜索隊により、17名中16名の遺体やその一部、または遺品発見収容されている。氷河深部圧力受けたため遺体遺物多く損傷激しかったが、遺体多く寝袋入っていたことから登山隊は宿営地睡眠中に雪崩巻き込まれたことがほぼ確かめられた。 事故まもない1991年5月展望台より梅里雪山望め飛来寺日中遭難者氏名刻んだ慰霊碑建てられた。2004年には、慰霊碑日中両国遭難者氏名刻んだ碑文のうち、日本語部分及び日本人遭難者氏名記載した部分が傷つけられ判読不可能な態となった。2006年2月にはチベット族隊員一人の名も判読できなくなっている。遺体の捜索一段落した2006年10月京都大学学士山岳会により、山麓の明永遺体捜索活動記念した記念碑設置された。この碑には中国語のみで「日中17人の勇士、ここに永眠する」と記されている。

※この「日中合同登山隊遭難」の解説は、「梅里雪山」の解説の一部です。
「日中合同登山隊遭難」を含む「梅里雪山」の記事については、「梅里雪山」の概要を参照ください。

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