戦災による焼失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:18 UTC 版)
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月25日の空襲で、桜田濠沿い(現在憲政記念館がある場所)にあった参謀本部が爆撃され炎上した際、火の粉により明治宮殿に類焼し全焼した。宮殿の消火作業に当った警視庁の特別消防隊19名が殉職したものの、昭和天皇らは吹上御苑内の御文庫に避難しており無事だった。宮殿焼失の翌日、その焼け跡をみまわった昭和天皇が、同行の警衛局長兼内匠頭のお詫びに対して「戦争のためだからやむを得ない、それよりも多数の犠牲者を出し、気の毒だった。残念だったなあ」と述べた。 明治宮殿が焼失してから、戦後になって吹上御所および新宮殿が新たに造営されるまで、天皇は御文庫を仮の御所とし宮内庁庁舎3階を仮の宮殿とした。戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかった。この理由について、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政は、自らの著書で『お上(昭和天皇)は戦争終了後、「国民が戦災の為に住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ」と、戦災からの復興とそれに伴う国民生活の向上を最優先とすべしという考えから、空襲で焼失した宮殿などの再建に待ったをかけていた』旨のことを記している。 明治宮殿の跡地には、1968年(昭和43年)に現在の宮殿(新宮殿)が建設された。 2019年(令和元年)10月18日発売の天皇陛下御即位記念切手は、失われた明治宮殿の正殿の天井の絵柄と、正面玉座上部の緞帳の絵柄がレイアウトされている。
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