戦中の活躍
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「リヒャルト・クロチャック」の記事における「戦中の活躍」の解説
シュナイダーハン弦楽四重奏団はウィーン楽友協会の会場と演奏契約をした団体であり、会場を満員にする人気があった。楽友協会会長のフランツ・シュッツ教授の要望で、シュナイダーハン弦楽四重奏団は1939年から1940年にかけてのシーズンの後半に初めて楽友協会に登場し、小ホールで3回のコンサートを行ったが、その際には、ウィーンの伝統を継承するという意図のもと、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの曲のみでプログラムを構成した。ヴォルフガング・シュナイダーハンが著名なソリストとしても人気を博していたこともあってチケットは即座に完売し、聴衆からも新聞からも好意的に受け入れられたので、急遽4回目のコンサートが追加された。このシーズンだけでも、29のレパートリーによる32のコンサートが開催された。さらに、私的な場において、ピアニストとしてのヴィルヘルム・フルトヴェングラーと共演することもあった。 次のシーズンには6回のコンサートが企画され、さらに追加コンサートも行われたが、チケットを求める人が殺到するので、大ホールでコンサートが行われるようになった。なお、その背後には、戦争が開始して「他のものがほとんど買えなくなった」厳しい社会情勢があった。 この時以来、楽友協会専属の弦楽四重奏団による室内楽の定期演奏シリーズが開催されるようになり、バリリ弦楽四重奏団、ウェラー弦楽四重奏団などが続いた。シュナイダーハン弦楽四重奏団は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを務めたアルノルト・ロゼがロンドンに亡命し、旧体制が終焉を迎えた1938年から、戦後のバリリ時代へと貴重な橋渡しを行ったと評されている。 その後は演奏旅行も行うようになり、中立国とされるスウェーデン、スペイン、ポルトガル、占領下のオランダ等でコンサートを行った。また、ドイツ各地でもコンサートを開いており、チョコレート製造業者で室内楽愛好家のシュプレンゲルの招きで、特にハノーヴァーには何度も足を運んだが、爆撃で壊れゆく都市の姿を何度も目にした。 また、ザルツブルク音楽祭にも何度か参加した。1944年の音楽祭は、ヒトラーの暗殺未遂事件に伴い中止されたが、特例としてフルトヴェングラーが指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と、シュナイダーハン弦楽四重奏団のみ公演が許された。なお、急用のため本番には来られなかったが、リヒャルト・シュトラウスがシュナイダーハン弦楽四重奏団のリハーサルを見学した。 ナチスの高官から演奏をリクエストされることもあり、「シューベルトの『死と乙女』を聴きたい」と言ったルドルフ・ヘスの前で演奏したこともあった。また、ナチスの宣伝省から演奏会の頻度や収入に関するアンケートの回答を求められたこともあったが、これはシュナイダーハン弦楽四重奏団の国有化を目論んだものであったとされる。
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