戦中の受難と戦後の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:27 UTC 版)
日中戦争から太平洋戦争に至る時代の食糧不足、ことに大戦末期と終戦後の深刻な食糧難は、大型犬である秋田犬の保存に甚大な被害を与え、秋田犬の数は激減した。餌として与えるものも、ワラビノリやカタクリ澱粉、野菜類など、植物質のものがほとんどであり、どうにか生き延びても子が生まれなかったり、生まれた子犬も栄養失調でうまく育たず、ようやく育っても、ジステンパー等の病気によって多くが死んだりしたという。 大型犬であればその分必要とする食料も多くなるため、犬に餌をやるだけでも国賊呼ばわりされたという時代であった。大きな犬は目を引く分、風当たりも強かった。戦時下では、軍用の防寒衣料として犬の毛皮を使用したため、軍用犬となるジャーマン・シェパード・ドッグ以外の犬には捕獲命令が出されていた。その捕獲を逃れる目的で、ジャーマン・シェパード・ドッグを交配したことが、秋田犬の純化を後退させることともなった。 1945年(昭和20年)の終戦の時点では、血統の正しい秋田犬は、愛犬家の非常な努力により残された、わずか十数頭に過ぎなかった。これらの犬を土台として、戦後再び純血種としての繁殖固定が行われた。 ヘレン・ケラーへの贈呈のエピソード(詳細は後述)や、連合国軍のアメリカ軍兵士らが体が大きく愛らしい顔つきの秋田犬を好んで飼ったこと、戦後混乱期に番犬としての需要が高まったことが相まって、秋田犬はちょっとしたブームとなった。このため、この時代は、雑種化したものまでが高い値段で売られ、1955年(昭和30年)頃までは、様々なタイプの「秋田犬」が繁殖・販売されたという。 この当時広く出回った、太く大きく雄大ではあるが、顔・色・体の造り等に、戦時中に交雑したジャーマン・シェパード・ドッグの特徴を半ば残しているものを、「出羽系」と呼んでいる。この頃、全犬種団体共同の展覧会でトップになった「金剛号」も出羽系であり、秋田犬保存会においてさえ、金剛号の子で同じ出羽系の 「金朝号」が名誉章を受賞している。出羽系には繁殖力の強さもあり、昭和20年代を通して、秋田犬界を席巻する勢いがあった。 しかし、その一方では、わずかな純血種の個体を土台として、マスティフやジャーマン・シェパード・ドッグ等の外来犬の特徴を除去して本来の秋田マタギ犬に近づける努力が、保存会を中心に続けられた。改良、繁殖、指導への取り組みが実を結び、大型犬種としての固定化が実現したが、1955年(昭和30年)頃からは、この「一ノ関系」が秋田犬の主流となった。やがて出羽系の犬は、国内ではほぼ完全に排除されることとなった。 一方、占領軍兵士の帰国とともにアメリカに渡った当時の「秋田犬」の子孫は、現在「アメリカン・アキタ」として、アメリカを始め、世界各地に広がっているが、これらはほぼすべてが出羽系の血統であると言ってよい。多くの地域では、その当時の犬の子孫がそのままに飼われており、かつての占領軍兵士は秋田犬の中でも特に体格の良い、いわゆる「熊顔」型の秋田犬を持ち帰ったことより、一ノ関系が主流となった日本の秋田犬とは外観などがかなり異なっているので、独自の犬種と見なされている。 例外的に、アメリカ西海岸のみは、1969年(昭和44年)に秋田犬保存会の支部が作られ、毎年の展覧会や継続的な指導の結果、日本と変わらなくなっている。
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