復帰前と復帰後の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)
戦前および日本復帰前の沖縄に関する諸々の学問(沖縄学)は、沖縄人による自己認識(沖縄認識)という性格が強い。また、沖縄人=日本人であること、さらには沖縄が日本の一部であるということの証明に勢力を注ぎ込んでいるという特色がある。これが1980年以降になると、それまでのような日本や人種に規定されてきた視点が批判され、アジアのなかにおける他国とは異なる歴史を持つ独立国という視点での沖縄学へと変容してくる。 羽地朝秀に対する評価も例外ではなく、たとえば戦前の研究者である伊波普猷は、「思慮深い経世家」「自国の立場に対する自覚の強い人」「先見の明があって琉球の将来をも見透かしていた」と称し、島津侵攻後、琉球役人たちへ大和(日本)心の涵養を斡旋し、みずからは薩摩とのパイプ役となり、薩摩の指示に従うことで日本民族として同化していったとするような、日本や日本民族への同化という視点で羽地をとらえている。 また、戦後7年目に当たる1952年に「羽地仕置」の校注を行った東恩納寛惇は、伊波同様に羽地を「本土の源流に(琉球を)復帰」させた人物と位置づけたうえで「我等の郷里の現状が、慶長終戦直後と酷似してゐる事に想到」させ、「一片の私心なき熱血良識の指導者」である彼が存在した島津侵攻後と、彼の存在しない戦後を比較して述べている。 一方、復帰後になると、高良倉吉は「施策遂行のために一貫して具体的・実践的な姿勢を堅持した政治家」「周到な戦術を駆使する論客」として羽地を称し、蔡温に先行して日本とは軌を一としない琉球の「近世化」を準備し「伝統」を形成した人物と位置づけた。また田名真之などは、儒教的なイデオロギーによって王国を再建した人物として羽地を位置づけている。この両者に共通しているのは、合理主義者でありかつ琉球の「伝統」や琉球「近世」の創出者という視点で羽地をとらえていることである。
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