後醍醐天皇崩御と北畠親房の台頭とは? わかりやすく解説

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後醍醐天皇崩御と北畠親房の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 09:33 UTC 版)

南北朝時代 (日本)」の記事における「後醍醐天皇崩御と北畠親房の台頭」の解説

延元4年/暦応2年8月16日1339年9月19日)、後醍醐天皇崩御寵姫阿野廉子の子である義良親王後村上天皇として南朝天皇践祚した(践祚日は前帝崩御前日)。立場上敵でありながら後醍醐天皇崇敬する室町幕府初代将軍足利尊氏は、その菩提を弔うため、臨済宗夢窓疎石開山として天龍寺開基し、京都五山第一とした。 この頃南朝公卿にして、慈円と共に中世代表する歴史家である北畠親房北畠顕家の父)は、関東地方南朝勢力結集図り常陸国小田城にて篭城していた。同年秋、新帝に道を表すため、南朝正統性を示す『神皇正統記』執筆し儒学導入して帝王には血筋神器だけではなく、徳(=政治能力)も求められるという、当時としては大胆革新的な思想展開した。親房は興国4年/康永2年1343年)ごろに吉野帰還し後村上天皇頭脳として、南朝実質的に指導した。のち、准三宮として皇后らに准じる地位得た

※この「後醍醐天皇崩御と北畠親房の台頭」の解説は、「南北朝時代 (日本)」の解説の一部です。
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