後醍醐天皇崩御と北畠親房の台頭
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「南北朝時代 (日本)」の記事における「後醍醐天皇崩御と北畠親房の台頭」の解説
延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)、後醍醐天皇崩御。寵姫阿野廉子との子である義良親王が後村上天皇として南朝天皇に践祚した(践祚日は前帝崩御の前日)。立場上敵でありながら後醍醐天皇を崇敬する室町幕府初代将軍足利尊氏は、その菩提を弔うため、臨済宗夢窓疎石を開山として天龍寺を開基し、京都五山第一とした。 この頃、南朝公卿にして、慈円と共に中世を代表する歴史家である北畠親房(北畠顕家の父)は、関東地方で南朝勢力の結集を図り、常陸国小田城にて篭城していた。同年秋、新帝に道を表すため、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆し、儒学を導入して、帝王には血筋と神器だけではなく、徳(=政治能力)も求められるという、当時としては大胆で革新的な思想を展開した。親房は興国4年/康永2年(1343年)ごろに吉野に帰還し、後村上天皇の頭脳として、南朝を実質的に指導した。のち、准三宮として皇后らに准じる地位を得た。
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