建立後とは? わかりやすく解説

建立後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 12:06 UTC 版)

六道辻」の記事における「建立後」の解説

墓碑の建立後、地域住民の中から世話人現れ毎年旧暦4月23日六道口の戦いの日)に墓前供養営み子供相撲紙芝居なども併せて行うことで、親から子へ戊辰戦争語り継ぐ機会とした。特に1913年大正2年)頃に六道辻近く引っ越してきた肥料商の岩本弥太郎は、戦士墓を深く崇敬し家族ともども毎日祈り捧げた1917年大正6年)には「戊辰之役五十周年記念法要」を営み岩本周囲相談の上大旗2流と花瓶1対を納め新たな鳥居寄進した。この頃六道辻拡幅のため墓所北東-南西部分が道路用地として切り取られ三角形の狭い墓所変貌したその後墓地建立の経緯忘却され被葬者不明となってしまった。地域住民は「賊神様」などと呼び慣らしていたが、郷土史家らは「新政府軍側の宇都宮藩士が敵である旧幕府軍の墓を建てるずがない」と旧幕府軍の墓ではないと考え旧幕府軍と新政府軍双方犠牲者の墓だという仮説立てるも、新政府軍の墓は官修墳墓があることから否定され被葬者不明とされた。 1965年昭和40年になって新潟県長岡市から宇都宮市照会入り宇都宮市小林友雄に取り次いだ今泉次郎著した『河井継之助伝』戸田三男証言があり、その事確認目的であった小林同書記述のあった山本帯刀愛刀行方追い宇都宮二荒山神社から栃木県護国神社移されたことを突き止めた。この結果同書にある戸田三男証言信頼性担保され、建立の経緯史実であると認められた。 1967年昭和42年5月明治100年記念に営まれ墓前祭で、墓碑左側に墓の説明刻んだ碑を、墓碑右側に「戊辰戦士明治百年祭記念碑」を建立した。この墓前祭には地域住民のほか、長岡市会津若松市からも参加者訪れた。 墓は21世紀になって清掃が行届き供花線香絶えことはない。

※この「建立後」の解説は、「六道辻」の解説の一部です。
「建立後」を含む「六道辻」の記事については、「六道辻」の概要を参照ください。

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