小室浅間明神との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 06:34 UTC 版)
「北口本宮冨士浅間神社」の記事における「小室浅間明神との関係」の解説
浅間明神の勧請元は、『甲斐国志』の下記の記載によれば、吉田口二合目の小室浅間神社(現在の冨士御室浅間神社)である。 是古社殿ナキ以前富士浅間遥拝ノ地ニ築ク後神祠ヲ創造シ小室浅間明神ヲ勧請スト云 また、下記のことから、本来「下浅間」とは北口本宮冨士浅間神社を指している。 例えば、延宝8年(1680年)の登拝路や信仰施設を描いた富士山吉田口の富士参詣曼茶羅図に類する絵図『八葉九尊図』で現北口本宮は「下浅間」と記されている。また、『甲斐国志』にも以下の記載がある。このことから、文化11年(1814年)の時点では、「上浅間」が冨士御室浅間神社、そこから勧請した「下浅間」が北口本宮冨士浅間神社、それとは別に冨士山下宮小室浅間神社が「下ノ宮浅間」と呼ばれていたことがわかる。 小室ヲ上浅間ト云此祠ヲ下浅間ト稱スルハ本小室ト同社ノ謂ナリトソ、又下吉田ニ浅間アリ是ヲハ下ノ宮浅間ト稱ス しかしながら、現在では二合目の冨士御室浅間神社を「上浅間」と呼ぶことは少なく、代わりに北口本宮が「上浅間」と呼ばれ、冨士山下宮小室浅間神社が「下浅間」と呼ばれることが多い。 これは、二合目の冨士御室浅間神社は勝山の氏神であり吉田との交流が少なかったことや、富士スバルラインの開通などにより五合目までの登山道が衰退したことから、関係が薄れていった可能性がある。 富士吉田地域に於いて、北口本宮が浅間神社としては新しく、富士講御師に依る対外的な信仰を集めていたのに対して、冨士山下宮小室浅間神社は富士北麓地域の産土神・鎮守神で、農耕信仰を中心とした地元民の生活に根差した信仰があった。 だが、明治に入り、北口本宮には冨士山下宮小室浅間神社から氏子地域である上吉田を譲られ、氏神としても信仰されるようになり、それぞれ上吉田の浅間神社「上浅間」、下吉田の浅間神社「下浅間」と呼ばれるようになった。
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