寺院の場所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 02:29 UTC 版)
「スリ・マリアマン寺院」の記事における「寺院の場所」の解説
当初、イギリスの権威達はテロック・アヤ・ストリート (Telok Ayer Street) 沿いに、ヒンドゥー教寺院用の土地を割り当てていた。これは、初期のアジア人移民達の多くがシンガポールに到着した最初の地であり、彼らが安全な海の旅路に祈りや感謝を述べた場所、テロック・アヤ湾に沿って走るストリートである。シンガポールにおける最初の中国・インド人ムスリム達の、崇拝の場所もそこに位置していた。しかし、テロック・アヤ・ストリートはヒンドゥー教寺院の儀式に必要とされる、新鮮な水の都合の良い水源を欠いていた。 シンガポールに住んでいたイギリス人、ウィリアム・ファークァーは1821年、ピレイにスタンフォード運河近くの場所を占有させた。しかし再び、その場所は1822年に提案されたシンガポールの都市計画、ジャクソン・プランのため、寺院の建設に不適格となった。スタンフォード運河一帯が他の目的の使用へ用意されていた間、建設は「クリング教会 (Kling Chapel) 」という名称の寺院の隣の場所に計画された(この「クリング」という言葉はシンガポールとマレーシアのインド人の古い名前で、現在は侮蔑的な名称と考えられている)。この場所はインド人コミュニティへ充てられた地域の近隣である。 1823年、現在のサウス・ブリッジ・ロードの場所が、ヒンドゥー教寺院の建設を目的として遂にピレイへ譲渡された。寺院の側面に接するストリートは、後に寺院自体とその突出した塔に関連してそれぞれ「テンプル・ストリート」と「パゴダ・ストリート」へ改名された。非公式であるが、チャイナタウンに住む人々はこのパゴダ・ストリートを中国語で「インド人の崇拝地の後ろ側」と呼んだ。
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