城西南地区開発構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 06:17 UTC 版)
多摩田園都市構想は、1953年、当時の東急電鉄会長・五島慶太によって発表された「城西南地区開発趣意書」に端を発する。 五島は1939年、世田谷区南西端の上野毛に移住し、そこから城西南地区へよく散歩に出かけていた。この時、五島は秘書に「ここに鉄道を通すのが俺の夢だ。」と話していたが、構想発表当時には高速道路(東急ターンパイク)建設に考えが変わっていた。 最終的に多摩田園都市開発の対象地として決定した地域は、神奈川県北東部の丘陵地帯であった。大山街道に沿った小規模の集落を除けば第二次世界大戦までは東京防衛のための軍隊の演習地であり、戦後になって農民の入植が行われていた地域だった。また、東急によれば1955年(昭和30年)の地域人口は約2万人とされている。 城西南地区開発構想での開発対象地域は以下の通りで、現在の多摩田園都市地域の他に、後に港北ニュータウンとなる地域や、鶴見川沿いの工業地域や住宅団地となる地域を含んでいた。 城西南地区開発構想での開発予定地域(1953年当時の地名)地区名対象地区宮前川崎市字馬絹・大字梶ヶ谷・大字野川・大字有馬・大字土橋・大字宮崎(旧宮前村) 中川横浜市港北区中川町・南山田町・北山田町・牛久保町(旧中川村) 山内横浜市港北区元石川町・荏田町(旧山内村) 中里横浜市港北区寺家町・鉄町・鴨志田町・成合町・上谷本町・下谷本町・西八朔町・北八朔町・市ヶ尾町・黒須田町・大場町・小山町・青砥町(旧中里村) 田奈横浜市港北区恩田町・奈良町・長津田町(旧田奈村) 新治横浜市港北区十日市場町・新治町・三保町(旧新治村) 都田横浜市港北区川和町(旧都田村) 「城西南地区開発」は、これらの地域内に核となる街区を建設するとともに、開発対象地域の北部を貫通して二子玉川と厚木基地周辺の工業地帯を連絡する交通機関(高速道路または鉄道)と、渋谷から開発対象地域の東部を貫通して、小机、横浜駅西方を経由し湘南方面を連絡する高速道路(東急ターンパイク)を建設して、短期間で新都市を建設するという構想であった。 しかし、1956年に公布施行された首都圏整備法に基づく首都圏整備計画で定められた「グリーンベルト」地域に計画地域の大部分が含まれることから、「多摩川西南新都市計画」が策定されることになった。
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