国連「追放」
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1971年7月、アメリカは大統領リチャード・ニクソンが、中華人民共和国と和解し、「中国を代表する国家」として承認することで、冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、大統領特別補佐官ヘンリー・キッシンジャーを秘密裡にパキスタンのイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。これには、ベトナム戦争に早期に決着をつけるとともに、アメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンが、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムも牽制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあった。 この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国の首相・周恩来と会談。その後の記者会見で、ニクソン大統領の北京訪問の計画を発表し、世界を驚愕させた。訪台経験もある熱烈な反共主義者で選挙資金を蔣介石から支援されているという噂もあった親華派(チャイナ・ロビー、親台派)のニクソンの訪中に中華民国も衝撃を受けた。毛沢東はニクソンと会談した際に「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と語った。 さらに1971年11月にはアルバニアなどが中華民国の国連追放を提起した「国際連合総会決議2758」が可決される。中華人民共和国が国連に中華民国の追放を最初に提起したのは1949年11月18日で、以後「中国代表権問題」と呼ばれ、長らく提議されては否決され続けてきた。アルバニア決議案に対抗して「二重代表制決議案」を日本などとともに提案していたアメリカは国連常任理事国の中華人民共和国の継承は合意したものの、中華民国の国連追放までは考えていなかった。しかしこのことを事前にアメリカから伝えられた蔣介石は激怒し、アメリカや日本の説得を無視する格好で「莊敬自強 處變不驚」(恭しく自らを強め、状況の変化に驚くことなかれ)と自ら国連の脱退を選択した。 その後も、経済発展を続ける中華民国との国交継続を願う諸国は多かったものの、「中華民国との国交を断絶しない場合は、中華人民共和国から国交を断絶する」などの外交選択やそれに伴う経済的不利益、さらには国連での拒否権発動をちらつかせるなど有形無形の外交圧力を加えたため、アメリカをはじめとする西側諸国のように交流関係を維持する国は多かったものの、正式な国交を持つ国は20か国程度となるなど、中華民国は国際社会でほぼ孤立することとなった。
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