国政における経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:31 UTC 版)
「ドナルド・トゥスク」の記事における「国政における経歴」の解説
1989年に行われた第二次世界大戦後初の普通選挙では独立自主管理労働組合「連帯」による選挙会派「民主行動のための市民運動(ROAD)」から国政に進出。 1990年にROADが自由主義に対する理念の違いから内部分裂すると、経済と個人の自由の追求、一方でこれら自由化における急進主義や熱狂の排除、欧州統合への積極参加、という、いわゆる中道右派の理念を志す仲間と共に「自由民主会議(KLD)」を結成。1991年の総選挙ではセイム(下院)に37議席を獲得した。 1994年には、より社会的にリベラルな中道政党の「民主連合(UD)」と合併して「穏健な自由主義」を目指す「自由連合(UW)」を結成。1997年にはセナト(上院)議員となった。 2001年になると自由主義をめぐる党内の政策理念の対立から、トゥスクなどの旧自民会議(KLD)系だけでなく旧民主連合(UD)系も含めた同志がUWを離脱し、「連帯」選挙行動(AWS)から離脱した中道右派系の人々と共に新政党「市民プラットフォーム(PO)」を結成。その際にトゥスクは中心的な役割を果たし、同年の下院選挙では同等が与党の「民主左翼連合(SLD)」に対し野党第一党となる。2003年に党首に就任。 2005年の総選挙で市民プラットフォームは政権獲得を目指したものの、大幅に議席を伸ばして新たに与党第一党となった右派政党「法と正義(PiS)」に及ばず、再び野党第一党にとどまった。トゥスクは同時に行われた大統領選挙に立候補していたが、一次投票では首位となったものの決選投票で欧州連合(EU)懐疑派のレフ・カチンスキに敗れ、党首を務める市民プラットフォームも野党の地位に甘んじることになった。 2007年10月に行われた下院の任期前解散総選挙で、市民プラットフォームは上下両院で首相ヤロスワフ・カチンスキ率いる右派の前与党「法と正義」に対して勝利を収めて最大議席を獲得し、中道政党の「農民党(PSL)」と連立を組んで連立与党を構成することになり、トゥスクは同年11月16日首相に就任した。 2010年10月に予定されていたポーランド大統領選挙における最有力候補の一人と目されていたが、自らが以前から主導している社会・経済・行政・司法・立法等の構造改革を一貫して続行するため首相職に留まる決断をした。彼が率いる市民プラットフォーム党は3月下旬に予備選挙を行い、セイム(下院)副議長のブロニスワフ・コモロフスキが外務大臣のラドスワフ・シコルスキを抑え同党の大統領選立候補者に決定した。7月の決選投票の結果、コモロフスキが同年4月10日にポーランド空軍Tu-154墜落事故で死亡したレフの兄で「法と正義」の大統領候補であるヤロスワフを破って当選を果たした。 議会の任期満了に伴い2011年10月に実施された総選挙の結果、与党・市民プラットフォームは第1党を維持し連立パートナーである農民党と併せてセイムの過半数を制した。勝利の背景には好調な経済と安定した社会状況の下で政権維持を望む国民の支持があり、民主化後のポーランドにおいて初めて、与党が議会選挙で勝利して政権を継続することが確定した。そして11月19日、議会で内閣の信任決議が可決、第2次トゥスク内閣が正式発足した。
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