后妃と子女
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始皇帝の后妃については、史書に記載がなく不明。ただし、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御したときに後宮で子のないものがすべて殉死させられ、その数がはなはだ多かった」といっているため、多くの后妃があっただろうということは推測できる。 子女の数は明らかでない。『史記』李斯列伝には、始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことを記す。名前の知られている子は以下のものがある。 扶蘇(長子) 胡亥(末子) また、具体的な親族の血縁上の位置づけが不明な男子がいる。 子嬰 - 『史記』「六国年表第三」では、「胡亥の兄」とされる。一方、『史記』「秦始皇本紀」では「胡亥の兄の子」とされており、「兄」が誰の事なのかは記録されていない。また、『史記』「李斯列伝」では始皇帝の弟とされている。『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している。この場合、子嬰は始皇帝の甥、扶蘇と胡亥の従兄弟になる。また、李開元は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれたのが子嬰であると言う。これが事実であれば、子嬰の生年は紀元前239年(秦王政8年)となり、紀元前206年に項羽によって処刑された際の年齢は34歳頃と思われる。つまり、「始皇帝の弟」、「始皇帝の子」、「始皇帝の孫」、「始皇帝の甥」という四つの説が並立しているのが現状である。 公子高 - 二世皇帝のとき、趙高より始皇帝に殉死させられた。 将閭 - 二世皇帝のとき、趙高より自殺させられた。同母弟2人がいたが、みな自殺した。
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后妃と子女
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【漢王朝系図】(編集) 太上皇劉太公 代王劉喜 (前1)高祖劉邦 呉王劉濞 斉王劉肥 (前2)恵帝劉盈 趙王劉如意 (前3)文帝劉恒 趙王劉友 淮南王劉長 斉王劉襄 城陽王劉章 *前少帝劉某 *後少帝劉弘 (前4)景帝劉啓 淮南王劉安 中山王劉勝 長沙王劉発 (前5)武帝劉徹 陸城侯劉貞 (追)戻太子劉拠 (前6)昭帝劉弗陵 昌邑王劉髆 (追)悼皇劉進 *昌邑王劉賀 (前7)宣帝劉詢 (前8)元帝劉奭 楚王劉囂 (前9)成帝劉驁 (追)恭皇劉康 中山王劉興 広戚侯劉勲 (赤眉)皇帝劉盆子 (緑林)更始帝劉玄 (後1)光武帝劉秀 (前10)哀帝劉欣 (前11)平帝劉衎 広戚侯劉顕 (後2)明帝劉荘 *劉嬰 (後3)章帝劉炟 千乗王劉伉 清河王劉慶 (後4)和帝劉肇 済北王劉寿 (追)穆皇劉開 楽安王劉寵 (後6)安帝劉祜 (後5)殤帝劉隆 *北郷侯劉懿 (追)崇皇劉翼 (追)元皇劉淑 勃海王劉鴻 (後7)順帝劉保 (後10)桓帝劉志 (追)仁皇劉萇 (後9)質帝劉纘 (後8)沖帝劉炳 (後11)霊帝劉宏 (蜀1)昭烈帝劉備 *弘農王劉辯 (後12)献帝劉協 (蜀2)後主劉禅 皇后 呂雉(のちに光武帝により皇后位・諡号を剥奪される)魯元公主 劉盈(恵帝) 妾 曹氏劉肥(斉悼恵王) 夫人 戚氏劉如意(代王→趙隠王) 姫・皇太后 薄氏(子の即位により皇太后となる。また光武帝により皇后位・諡号を追贈される)劉恒(代王→文帝) 姫 趙氏劉長(淮南厲王) 生母の氏名が不詳の子劉恢(淮陽王→梁王→趙共王) 劉友(中国語版)(河間王→淮陽王→趙幽王) 劉建(中国語版)(燕霊王)
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