同盟軍の進軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/07 17:22 UTC 版)
オリベが降伏した直後、同盟軍は2部隊に分けた。1つは川を上ってサンタフェ州からブエノスアイレスまで掃討し、もう1つはブエノスアイレス港に直接上陸するという計画だった。前者はウルグアイ軍、アルゼンチン軍、そしてマヌエル・マルケス・デ・ソウサ(英語版)(後にポルト・アレグレ伯爵)率いるブラジル第1師団で構成され、ウルグアイ南部でブエノスアイレスからみてラプラタ川の対岸にあるコロニア・デル・サクラメントを基地とした。 1851年12月17日、蒸気船4隻、コルベット3隻、ブリッグ1隻で構成された、グレンフェル率いるブラジル小艦隊はパソ・デル・トネレロの戦い(英語版)でパラナ川を力づくで通過した。アルゼンチン軍はアセベド(スペイン語版)の崖近くのパソ・デル・トネレロで強力な防御線を築き、ルシオ・ノルベルト・マンシリャ(英語版)率いるライフルマン(英語版)2,000人と大砲16門が守備に就いた。アルゼンチン軍はブラジル艦隊と交戦したが、艦隊の通過を防ぐことに失敗した。翌日、ブラジル艦隊は戻ってトネレロの防御線を突破、ソウサの軍勢の残りを上流のグアレグアイチュー(英語版)に向けて輸送した。ブラジル艦隊が2度も現れたことで、マンシリャ率いる守備軍は同盟軍が上陸して自軍を後ろから攻撃するつもりであると勘違いして混乱に陥り、大砲も放棄して撤退した。 同盟軍はグアレグアイチューの集合場所への進軍を継続した。ウルキーサ率いる騎兵はモンテビデオから陸路で進軍、一方歩兵と砲兵はブラジル艦隊に輸送されてウルグアイ川を上った。合流の後、同盟軍は西へ進軍、1851年12月中にパラナ川東側のディアマンテ(英語版)に到着した。ガルソン率いるウルグアイ軍はブラジル艦隊に輸送されてポトレロ・ペレス(Potrero Perez)に到着した後、陸路で行軍して1851年12月30日にディアマンテに到着した。ここに同盟軍の全軍が再集結した。 同盟軍はディアマンテから派遣隊を送り、パラナ川の対岸にあるサンタフェで上陸した(パラナ川渡河(ポルトガル語版))。同地域にいたアルゼンチン連合の軍勢は抵抗もせずに逃亡した。同盟軍(ウルキーサは正式には「南アメリカの大軍」と呼称した)はブエノスアイレスに向けて進軍した。 一方、カシアス率いるブラジル軍の主力(約12,000人)はコロニア・デル・サクラメントに残った。カシアスは蒸気船ドン・アフォンソ(Dom Afonso)に乗船してブエノスアイレス港に入り、上陸地点を視察した。彼はそこで駐留していたアルゼンチン小艦隊との戦闘を予想したが、アルゼンチン艦隊は何もせず、彼はコロニア・デル・サクラメントまで安全に戻り、攻撃を計画した。しかし、同盟軍がカセーロスの戦いで勝利したとの報せが届いたため、攻撃は取り消された。
※この「同盟軍の進軍」の解説は、「ラ・プラタ戦争」の解説の一部です。
「同盟軍の進軍」を含む「ラ・プラタ戦争」の記事については、「ラ・プラタ戦争」の概要を参照ください。
- 同盟軍の進軍のページへのリンク