各地の武装蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:11 UTC 版)
「日本占領時期のインドネシア」の記事における「各地の武装蜂起」の解説
スカルノやハッタによる政府とは別に、8月15日以降は各地で多数の独立運動が始まっていた。日本軍の占領政策によって農業や鉱業の崩壊、労務者の徴用や強制労働、米の強制供出が起きており、官僚や華人に対する反感が高まっていた。青年を中心とする集団は日本軍から武器を奪い、政府機関、港湾、鉄道などを占拠し、官吏や華人に暴力をふるった。各地の官庁はさまざまな武装組織に占拠されて混乱した。のちに第2代大統領になるスハルトは、警官から義勇軍に志願して日本の降伏後は国軍の士官になり、ジョクジャカルタの日本軍部隊を襲撃して武器を奪取した。元蘭印軍兵士は、アンボン島やメダンの住民らとともに行動を起こした。 オランダは日本の降伏とともに蘭印を回復しようとした。オランダ本国は第二次世界大戦の戦災のため、代わりにイギリス軍が1945年9月29日にジャカルタに上陸して治安維持にあたり、のちの1946年3月にはオランダ軍も上陸した。日本軍の武器接収が始まり、独立を目指すスカルノはオランダに対抗するために10月5日に人民治安軍(TKR、のちのインドネシア共和国軍)を組織するが、情勢はその間にも急激に変化を続けた。日本軍は連合軍の指揮下でインドネシア人の活動を武力制圧したため、日本人への反感が高まる結果を招いた。 日本とインドネシア間の武力衝突の最終段階は1945年10月、日本がインドネシア側に譲渡した町や都市の支配権を、連合軍との降伏条件に基づいて取り戻そうとした時に始まった。日本の憲兵隊は10月3日に中部ジャワ州のペカロンガンでインドネシア共和国の青年団員を殺害し、また日本軍の部隊は西ジャワ州のバンドンから共和国青年団員を追放してイギリスに都市を引き渡したが、日本人が関与した最も激しい戦闘はスマランで起きた。10月14日、ジャワ島に上陸したイギリス軍がスマラン市へ向けて進駐を開始した。退却したインドネシア側は、捕らえていた130人から300人の日本人捕虜を殺害した。日本人500人とインドネシア人2000人が殺害され、6日後にイギリス軍がスマラン市に到着した時、一度は都市の全権を放棄した日本軍はスマラン市をほぼ占拠していた。 このスマラン事件は、日本が連合軍に敗れたことを知ったインドネシア共産党がスマランで武装集団を組み、共産党下の独立を目論み行われたものであるという説もある。当時この共産党過激派によって「日本人は水道に毒を入れた」などのデマが広がっていた。共産党過激派は日本軍が反撃できないことを知って武器を奪い、日本の民間人を殺害し、ジャワ地区の防衛司令官の邸を襲撃して旅団長を監禁し日本海軍将兵らを拉致した。スマランの治安にあたっていた日本の歩兵隊は拉致日本人約400人の救出のためにインドネシア共産党過激派との戦闘を余儀なくされた。日本の歩兵隊が突入するとすでに130人の日本人が殺害されていた。
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