古武道研究会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 18:09 UTC 版)
嘉納は古流柔術の定義について「無手或は短き武器を持って居る敵を攻撃し又は防御するの術」とし、柔道の修行・技術についても「その修行方法は攻撃防御の練習によって身体精神を鍛錬修養し斯道の真髄を体得することである」「攻撃防御の練習、柔道でいう攻撃は、便宜上、投、固、当の三種に分けることとしている。投とは場合場合でいろいろの動作をして対手を地に倒すことをいい、固とは絞業、関節業、抑業の区別はあるが、要するに対手の体躯、頸、四肢などに拘束を加えて動けなくしまたは苦痛に耐えられぬようにすることをいい、当とは手、足、頭、時には器物または武器をもって対手の身体の種々の部分に当て苦痛を感じしめ、または死に至らしめることをいうのである。そうして防御とはこれらの攻撃に対して己を全うするために施すいろいろの動作をいうのである。」 と述べている。柔道の当身の中に武器術、対武器術の概念を含むことを述べている。 嘉納は理想の柔道教師の条件として、「無手は勿論、棒、剣を使う術においても攻撃防御の術に熟練し、勝負上の理論も心得、同時に体育家として必要な知識を有し、且つその方法にも修熟し、また教育家として必要な道徳教育の理論にも通暁し、訓練の方法にも達し、のみならず柔道の原理を社会生活に応用する上において精深なる知識を有し、方法をわきまえている」 人物としている。嘉納の理想としての柔道の攻撃防御の修行には無手のみではなく武器術を含むものであったことが窺える。 また嘉納は大正15年(1926年)、当時の機関誌「作興」に、「武術としての柔道は無手術はもちろん、剣術、棒術、槍術、弓術、薙刀その他あらゆる武術を包含する」と書き、「剣術、棒術はいずれも価値あるものと認むるが、剣術の試合の練習はすでに世間に普及しているから、差し当たり無手術の他には剣術および棒術の形をするつもりである」と述べている。 嘉納はそのような修行形態を再試行する目的で、1928年に講道館内に「古武道研究会」を立ち上げ、柔、剣、棒、杖術等の古い武術の保存と新たな武術の創作と柔道としての体系化への研究に進んでいる。 参加メンバーの望月稔は、古武道研究会について「武術が殺傷の技術であったのに対し、武道は青少年の体育、徳育、知育に志向した教育手段として近代化されたものである。従って技術的には殺傷の技としては有効であっても、体育的には不適当と見做された多くの技が全て淘汰されてしまった。嘉納治五郎先生は大正の末期から、之に対する再検討に入られて、当時既に消滅に瀕していた古流武術の保存に力を入れられたのである」 と述べている。
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