即位とオルレアン公の摂政とは? わかりやすく解説

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即位とオルレアン公の摂政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:58 UTC 版)

ルイ15世 (フランス王)」の記事における「即位とオルレアン公の摂政」の解説

1715年9月1日72年王位にあったルイ14世崩御し、わずか5歳アンジュー公ルイ15世として即位する。本来なら幼いルイ15世摂政務めるのはルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世であったが、ルイ14世彼に不信感持っていた。 ルイ14世モンテスパン侯爵夫人との間に生まれたメーヌルイ・オーギュストトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドルに、自らの崩御後幼君のため設置される摂政政府での重要な役割与え遺言同年8月作成させている。彼らはルイ14世後妻マントノン侯爵夫人両人養育係で王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ死後秘密結婚をしている)の願いにより、嫡出子とされていた(他の多く庶子たちはこの待遇受けていない)。 遺言では摂政置かずルイ15世成人するまで14からなる摂政諮問会議設置し合議によって国政運営に当たることになっていた。摂政諮問会議オルレアン公座長となるが、メーヌ公とトゥールーズ伯を含むルイ14世側近たちが加わっており、必然的にオルレアン公権力制限されることになる。 しかし、オルレアン公中世以来帯剣貴族(noblesse d'épée)の支持受けており、ルイ14世によって国政から排除されていた彼らは政策の変更望んでいた。更に彼らは、メーヌ公とトゥールーズ伯私生児見なし忌み嫌ってもいた。これに加えてルイ14世によって建言奪われていたパリ高等法院、そしてイエズス会ローマ教皇重視政策の変更を望むジャンセニスト厳格主義信仰運動)とガリカニリスト(フランス教会自立主義)もまたオルレアン公支持していた。 死の床にあったルイ14世オルレアン公和解しようとしたのか、崩御数日前8月26日廷臣大臣たちに「オルレアン公従え、彼が王国統治する」と語っていた。ルイ14世崩御した翌9月2日パリ高等法院大臣王族、大貴族会議開かれたその場オルレアン公崩御数日前ルイ14世言葉持ち出して自分全権与えるよう要求するパリ高等法院オルレアン公支持して摂政諮問会議メンバー選別決定権与えルイ14世遺言事実上無効化されてしまった。こうしてオルレアン公摂政として実権握ったオルレアン公支持見返りとして、パリ高等法院建言返還している。その後パリ高等法院はこの権限をもって事あるごとに王権抵抗するうになるメーヌ公は非嫡出子落とされ王位継承権奪われ失脚してしまう。メーヌ公はスペイン王フェリペ5世通じて陰謀企てるが、12月露見し投獄され、後に国外追放となっている。 オルレアン公パレ・ロワイヤル執務行い、幼いルイ15世先王遺言により、空気がよく健康に良いとの理由ヴァンセンヌ城移転させられた。だが、その4ヶ月後にはヴァンセンヌは冬が厳しいとの理由で、今度パリ中心部のテュイルリー宮に移っている。 7歳になったルイ15世は、フランス王家の伝統則って男性によって養育されることになり、ルイ15世心から慕っていた養育係のヴァンタドール夫人と涙を流して別れたルイ14世遺言により新たな養育となったのは、ヴィルロワ公とフルーリー司教であった。ヴィルロワ公は宮廷作法教えた養育者としては凡庸な人物で、ルイ15世良い影響与えず内気な性格助長させただけだった一方フルーリー司教温雅な人物教え子優れた教育施しルイ15世から敬愛される摂政となったオルレアン公放蕩家として有名な人物だが、公私分別はつけ、政治家としては有能だったという見方もある。オルレアン公摂政政府1715年大臣制を廃止して帯剣貴族層を国政参加させる多元的議会制(Polysynodie)と呼ばれる制度導入した。彼はまた、もしもルイ15世崩御すればフランス王位を主張できるスペイン王フェリペ5世牽制するため、1717年イギリスとの同盟成立させている。 多元的議会制帯剣貴族たちに国政運営能力欠如していたため上手く機能せず、3年廃止となってしまっている。財政立て直しのためにスコットランド人ジョン・ロー財務総監起用しフランス初の紙幣発行し北アメリカ植民地開発貿易会社立ち上げるが、バブル経済発生して失敗し多く貴族たちが破産する結果となったミシシッピ計画)。 1721年ルイ15世従妹スペイン王女マリアナ・ビクトリアと婚約した3歳スペイン王女は養育のためパリ移り住んだが、11歳ルイ15世はこの幼い婚約者に全く関心を示さなかった。1722年6月ルイ15世ヴェルサイユ宮殿移り終生ここで暮らすことになる。同年10月ルイ15世ランス大聖堂成聖式執り行った1723年2月15日ルイ15世13歳となり、パリ高等法院成人宣言して摂政政治終わったオルレアン公引き続き宰相として国政当たったが、同年12月薨去した。フルーリー助言従いルイ15世ブルボン公ルイ・アンリ後任宰相指名する

※この「即位とオルレアン公の摂政」の解説は、「ルイ15世 (フランス王)」の解説の一部です。
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