南朝正統史観・大義名分論からの批難とは? わかりやすく解説

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南朝正統史観・大義名分論からの批難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「南朝正統史観・大義名分論からの批難」の解説

江戸時代になると、『太平記』史観受け継いだ朱子学者歴史家から、再び後醍醐天皇厳しく批難された。新井白石読史余論』(正徳2年1712年))、三宅観瀾中興鑑言』(江戸時代中期)、頼山陽日本外史』(文政10年1827年))など当時の主要政治書・歴史書は、ほとんど『太平記』通り批判的評価後醍醐天皇与えた。観瀾と山陽大義名分論臣下いかなる状況であっても盲目的に主君服従すべきという江戸時代儒学思想)の有力な論客であり、「忠臣楠木正成称揚し南朝正統史観広めた立役者であるが、彼らでさえ揃って後醍醐に「不徳君主」の烙印押した。 なぜ南朝正統史観でも後醍醐批判されるという事態が起きたのかについて、亀田俊和次のように説明する南朝正統史観は「南朝正統」と名前があることから後醍醐天皇政治的手腕賛美されたと誤解されることがあるが、実は「南朝正統性」「大義名分論」「忠臣論」と「後醍醐天皇政権評価」は全くの別物として扱われていた。むしろ、後醍醐天皇が「暗愚不徳君主であるからこそ、それでもなお正統であるがゆえに、この暗君生死賭し一身捧げて仕えなければならなかった「忠臣」の「悲劇」が、判官贔屓の形で人々共感呼んだのだという。こうして、後醍醐天皇開いた南朝正統とされ、南朝の忠臣賛美されればされるほど、その対比として逆に後醍醐自身はさらに暗君として批難されるという、皮肉な状況となってしまった。

※この「南朝正統史観・大義名分論からの批難」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「南朝正統史観・大義名分論からの批難」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。

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