南朝正統史観・大義名分論からの批難
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「後醍醐天皇」の記事における「南朝正統史観・大義名分論からの批難」の解説
江戸時代になると、『太平記』史観を受け継いだ朱子学者・歴史家から、再び後醍醐天皇は厳しく批難された。新井白石『読史余論』(正徳2年(1712年))、三宅観瀾『中興鑑言』(江戸時代中期)、頼山陽『日本外史』(文政10年(1827年))など当時の主要政治書・歴史書は、ほとんど『太平記』通りの批判的評価を後醍醐天皇に与えた。観瀾と山陽は大義名分論(臣下はいかなる状況であっても盲目的に主君に服従すべきという江戸時代的儒学思想)の有力な論客であり、「忠臣」楠木正成を称揚し、南朝正統史観を広めた立役者であるが、彼らでさえ揃って後醍醐に「不徳の君主」の烙印を押した。 なぜ南朝正統史観でも後醍醐が批判されるという事態が起きたのかについて、亀田俊和は次のように説明する。南朝正統史観は「南朝正統」と名前があることから後醍醐天皇の政治的手腕が賛美されたと誤解されることがあるが、実は「南朝の正統性」「大義名分論」「忠臣論」と「後醍醐天皇の政権評価」は全くの別物として扱われていた。むしろ、後醍醐天皇が「暗愚で不徳の君主」であるからこそ、それでもなお正統であるがゆえに、この暗君に生死を賭し一身を捧げて仕えなければならなかった「忠臣」の「悲劇」が、判官贔屓の形で人々の共感を呼んだのだという。こうして、後醍醐天皇が開いた南朝が正統とされ、南朝の忠臣が賛美されればされるほど、その対比として逆に後醍醐自身はさらに暗君として批難されるという、皮肉な状況となってしまった。
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