南北戦争時代と1862年のダコタ戦争
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「ミネソタ州の歴史」の記事における「南北戦争時代と1862年のダコタ戦争」の解説
南北戦争が始まったときにミネソタ州は新しい州であったが、北軍に最初に軍隊を派遣した州であり、約22,000人のミネソタ人が従軍した。ミネソタ州初代知事アレクサンダー・ラムジーは、南北戦争が始まった1861年4月13日にはワシントンD.C.に居た。ラムゼイはセントポールに電報を送り、副知事のイグナティウス・L・ドネリー(共和党)に志願兵を募るよう督促した。第1ミネソタ志願歩兵連隊はゲティスバーグの戦いで特に重要な働きをした。 これと同時に、州内では1862年のダコタ戦争が勃発してもう一つの危機に直面した。ダコタ族はその獲物の生息域を失ったために。合衆国政府からの金が無ければ飢えてしまうと心配していたので、1851年のタラバース・デ・スー条約とメンドータ条約に署名していた。かれらには元々ミネソタ川の北岸と南岸に幅10マイル (16 km)の帯状の土地を与えられていたが、後に北側半分を売却するように迫られた。1862年、不作によってダコタ族は食糧危機に陥り、政府の援助金が遅れた。食料を探していた4人の若いダコタ族がアクトンの近くで白人開拓者の一家を撃った後で、ダコタ族の指導者は開拓者達を追い出すために攻撃の継続を決めた。数日間の間に、ダコタ族はローワースー居留地、ニューアルムおよびハッチンソンを攻撃し、周辺の農場も襲って、少なくとも300ないし400人の白人開拓者と政府の雇員が殺された。これが開拓地にパニックを生じさせ、州兵と連邦軍による反撃が誘発され、ミネソタ川渓谷やレッド川渓谷まで攻撃の手が拡がった。それに続いて起こったリッジリー砦、バーチ・クーリー、アバークロンビーおよびウッド湖の戦いは6週間戦争とも言われ、戦争に参加した425人のインディアンの裁判で終わった。この中で、303人は有罪とされ死刑を宣告された。 聖公会の司祭ヘンリー・ベンジャミン・ホィップルはエイブラハム・リンカーン大統領に減刑を嘆願し、死刑を宣告された者のうち39名を除いた者達は懲役刑に減刑された。1862年12月26日、38名の者が絞首刑となり、合衆国でも最大の大量処刑となった。非戦闘員を含む残りのダコタ族インディアンの多くは、1862年から1863年に掛けての冬をパイクアイランドの収容キャンプで拘束され、300名以上が病気で死んだ。生き残った者は後にクラウンクリーク保留地に追放され、さらに後にネブラスカ州ニオブララ近くの保留地に移動させられた。少数のダコタ族インディアンが1880年代に苦労してミネソタ州に戻り、グラナイトの滝近く、モートン、プライアー湖およびレッドウィングに地域社会を築いた。
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