半独立的な立場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/07 14:46 UTC 版)
「ムルシド・クリー・ハーン」の記事における「半独立的な立場」の解説
1712年3月、皇帝バハードゥル・シャー1世の死後、その次男であったベンガル太守アズィーム・ウッシャーンは皇位継承戦争でほかの兄弟と争ったが、戦いに敗れて殺害された。 戦争後、皇帝となったジャハーンダール・シャーは悪政により人望を失い、アズィーム・ウッシャーンの遺児ファッルフシヤルはジャハーンダール・シャーを討つためベンガルを出陣し、1713年にジャハーンダール・シャーを討ち皇帝となった。 1717年、ムルシド・クリー・ハーンは皇帝ファッルフ・シヤルの勅令により、正式にベンガル太守に任命された。なお、その際に首府はムルシド・クリー・ハーンの名にちなみ、ムルシダーバードと改められた。 しかし、同年、ファッルフシヤルはイギリス東インド会社に対し、ベンガルにおける関税の免除特権をあたえる勅令を出し、これはのちに地方政権との間で大きな問題となった。この特権では、イギリス東インド会社は関税なしで自由に物産を輸出入することができ、こうした物産の移動に対するスタッグと呼ばれる自由通関券する権利も与えられていた。 1724年、ムガル帝国の宰相カマルッディーン・ハーン(ニザームル・ムルク)がデカンのハイダラーバードで独立した。また、アワド太守のサアーダト・アリー・ハーンもアワドで独立して王朝を樹立するなど、ムガル帝国の広大な領土の解体は徐々に進んでいった。 とはいえ、ムルシド・クリー・ハーンもまた帝国からは半独立的な立場にあったものの、帝国に対しベンガル地方からの税収の納入は一応行っていた。
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