十大弟子像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:43 UTC 版)
乾漆十大弟子立像 6躯(国宝館所在)(国宝) 奈良時代、天平6年(734年)。像高 富楼那(ふるな)148.7cm、迦旃延(かせんねん)144.3cm、羅睺羅(らごら)149.4cm、舎利弗(しゃりほつ)152.7cm、目犍連(もくけんれん)148.0cm、須菩提(しゅぼだい、すぼだい)147.5cm 八部衆像と同様、西金堂に安置された釈迦集会(しゅえ)群像の一部であった。八部衆像と同様、西金堂創建時の作品とするのが一般的だが、額田寺(現在の大和郡山市・額安寺)から移された像であるとする説もある。京都国立博物館本「興福寺曼荼羅図」の西金堂の部分を見ると、十大弟子像は本尊釈迦如来の後方左右に5躯ずつ配置されていたことがわかる。現在、興福寺にあって国宝に指定されているのは6躯だが、当初は当然ながら10躯の群像であったもので、明治時代前半までは残りの4躯も、破損が甚だしいとはいえ、寺内に残っていた(これら4躯については後述)。 興福寺の十大弟子像は、『維摩経』「弟子品」に基づき、以下の10名の像とされている。 舎利弗(しゃりほつ、シャーリプトラ、サーリプッタ)智慧第一 目犍連(もくけんれん、マハーマウドガリヤーヤナ、マハーモッガラーナ)神通第一 大迦葉(だいかしょう、マハーカーシャパ、マハーカッサパ)頭陀(苦行)第一 須菩提(しゅぼだい、スブーティ)解空第一、無諍第一 富楼那(ふるな、プールナマイトラーヤニープトラ、プンナマンターニープッタ)説法第一 迦旃延(かせんねん、マハーカートゥヤーヤナ、マハーカッチャーナ)論議第一 阿那律(あなりつ、アニルッダ、アヌルッダ)天眼第一 優波離(うばり、ウパーリ)持律第一 羅睺羅(らごら、ラーフラ)戒行、密行第一 阿難陀(あなんだ、アーナンダ)多聞第一 現在、興福寺に残り国宝に指定されている6躯は舎利弗、目犍連、須菩提、富楼那、迦旃延、羅睺羅とされており、残りの4躯、すなわち大迦葉、阿那律、優波離、阿難陀にあたる像は明治期に寺外に流出した。 現存する6躯はいずれも法衣の上に袈裟を着して直立するが、衣の種類や着装法、衣文の表し方などに変化をつけており、面相も各像の年齢や表情に差をつけ、像主の個性を表現している。法衣は筒袖のものと広袖のものがあり、富楼那像は筒袖と広袖の両方を着している。6躯の中で迦旃延像のみが右肩を露わにしている。他の像も袈裟の着け方に偏袒右肩と通肩の違いがあり、須菩提と羅睺羅は袈裟を通肩に着す。舎利弗像の左腕は心木を残すのみで欠失し、目犍連像は両手首から先を欠失する。主な後補箇所としては、舎利弗と富楼那の履物、迦旃延の右前膊などがある。洲浜座は目犍連と富楼那の分が後補である。現在の像名は必ずしも当初の像名とは限らない。たとえば、羅睺羅像は目を閉じていることから、本来は盲目の阿那律の像として造られた可能性がある。 明治25年(1892年)以前に撮影されたとみられる興福寺の古写真には、十大弟子像のうち、寺外に流出した4躯に該当する、破損の激しい残欠2躯と心木2躯分が写っている。このうち、心木1躯分は東京芸術大学の所蔵となっている(大正2年、1913年購入)。これは衣の裾と足の部分がかろうじて残るのみで、像表面はほとんど失われ、心木のみが残っているが、乾漆像の像内構成を知るうえで貴重な資料である。東京の大倉集古館には明治末期に竹内久一によって修理、補作された優波離像と伝える1躯があったが、関東大震災で焼失した。昭和5年(1930年)に刊行された『古美術研究資料』(三浦秀之助偏、山中箺篁堂)という書籍に写真が掲載された1躯があるが、これは前述の古写真に写っている残欠の欠失部を大正11年(1922年)に武藤山治が資金を出して菅原大三郎が修理、補作したものである。この像は個人蔵で、2000年に大倉集古館で開催された「拈華微笑」という展覧会に出品された後、2014年3月にニューヨークで行われたクリスティーズのオークションに出品され66万5千ドルで落札された。他に、大阪市立美術館に旧田万コレクションの乾漆像の頭部があり、興福寺十大弟子像の1体とみられている。
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