再度のボスポラス砲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:14 UTC 版)
「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「再度のボスポラス砲撃」の解説
詳細は「ボスポラス砲撃 (1915年4月)」を参照 1915年4月18日、戦列艦エフスターフィイ、イオアン・ズラトウースト、パンテレイモン、トリー・スヴャチーチェリャ、ロスチスラフ、巡洋艦カグール、パーミャチ・メルクーリヤ、アルマース、水上機輸送艦ニコライ1世、9 隻の艦隊水雷艇および4 隻の掃海艦からなる連合艦隊は、再びボスポラスに向けて出航した。翌19日午前5時15分、艦隊は待望の海峡を視認した。今回は天候は明るく、視界は良好であった。 7時、エベルガールトの命によってニコライ1世は偵察用の水上機を海面へ降ろした。7時15分、司令官は砲撃のためトリー・スヴャチーチェリャとパンテレイモンを指定位置へ分派することを命じた。随伴する掃海艦が掃海具の設置に手間取ったため、砲撃グループの出発は8時40分にずれ込んだ。帰還した航空機は、「潜水艦」1 隻の存在を知らせた。 9時47分、距離58 鏈から戦列艦はエルマス岬の砲台に対する砲撃を開始した。両艦は6 knの速度で進みながら、アナトリア沿岸の砲台を順々に砲撃していった。その後、キリイ砲台への砲撃も実施した。 10時40分、砲撃グループに向かって移動する潜水艦の潜望鏡の跡らしき小波が艦上より発見された。戦列艦が速やかに152 mm砲を発射すると、小波は見えなくなった。しかし、今日ではこれは潜水艦などではなく、イルカの群であったろうと推定されている。当時、黒海にはまだドイツ潜水艦は到着していなかったためである。 キリイへの砲撃を完了すると、両艦は砲撃を繰り返すため、折り返し逆方向へ進路を取った。オスマン帝国の砲台も反撃を試みたが、1 発の砲弾もロシア艦に届かなかった。砲撃グループは往復砲撃を終え、11時45分に連合艦隊と合流した。 この砲撃は、2時間15分にわたって続けられた。戦列艦からは166 発の305 mm砲弾と528 発の152 mm砲弾が発射された。砲台のひとつからは爆発が観測され、その後に大規模な火災が発生した。 翌20日、エベルガールトは砲撃のために古い戦列艦トリー・スヴャチーチェリャと弱い戦列艦ロスチスラフだけを派遣した。潜水艦の出現を予見して、彼はより新しい戦列艦パンテレイモンにリスクを犯させるのを避ける決断をしたのである。 ニコライ1世から飛び立った水上機は、海峡を偵察して敵艦が発見されないことを報告した。その後天候が悪化したため、好転を待って12時45分、水上機輸送艦は再び航空機を離水させた。航空機は、オスマン帝国艦船が付近には1 隻もいないことを確認した。 14時40分、戦列艦は砲門を開いた。加えて、新たに発見された別の砲台をトリー・スヴャチーチェリャは152 mm砲で砲撃し、ロスチスラフは主砲の254 mm砲を浴びせた。砲撃は16時10分まで続けられ、その間に合わせて29 発の254 mm砲弾と132 発の152 mm砲弾が消費された。砲撃の正確な結果は、知ることができなかった。 この作戦では、砲撃グループより別動隊の働きの方が大きかった。巡洋艦と艦隊水雷艇からなる別動隊は活発な通商破壊を行って敵の輸送船を次々と撃沈し、オスマン帝国の首都に石炭を届けていた運搬システムを麻痺させた。これが、ヤウズ・スルタン・セリムを黒海へ招き入れ、ロシア艦隊との次なる衝突を生む遠因なったのである。 連合艦隊は、4月23日にセヴァストーポリへ帰港した。
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