再び大阪――北野中学転入とは? わかりやすく解説

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再び大阪――北野中学転入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:46 UTC 版)

梶井基次郎」の記事における「再び大阪――北野中学転入」の解説

1914年大正3年2月一家大阪市西区南通2丁目35番地現・西西本町1丁目8番21号)の借家移転4月、兄と共に名門旧制大阪府立北野中学校現・大阪府北野高等学校)の学力検定試験転入試験)を受けて合格し、基次郎2年生転入した学校のある北野芝田町(現・芝田町2丁目)まで30分ほどの道のりを兄と一緒に徒歩通学した。 基次郎水泳音楽好きな少年で、可愛げのある接し方で人気があったが、表面的に比較大人しく目立たない生徒でもあった。翌1915年大正4年8月20日身体の弱かった9歳の弟・芳雄が脊椎カリエス死亡した同月日本ドイツ宣戦布告し第一次世界大戦に参戦安田鉄工所陸軍・海軍工廠の特別指定を受け、父の仕事多忙となった1916年大正5年3月、基次郎成績上位3年修了異母弟・順三は高等小学校終えると、北浜株屋奉公出された。道義心の強い基次郎はこれに同情し北野中学に退学届を出して中退自分筋向いメリヤス問屋丁稚となった6月からは西道頓堀の岩橋繁男商店住込み奉公に変わる)。4月に兄は大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部電気科入学した。 順三は基次郎気兼ねし長崎移っていくが、不憫に思った父が順三を家に連れ戻したこの年祖父秀吉の遺した金1,000円を元手に、母は父に勧めて自宅改装し玉突き屋「信濃クラブ」(信濃にちなんだ名称)を開業。店は繁盛した1917年大正6年2月、基次郎奉公をやめて家に戻り、母の説得もあって4月から北野中4年復学終生の友となる同級生宇賀康、畠田敏夫、中出丑三らと親交を持つようになった。彼らの間では基次郎綽号渾名)は「熊」であった。またこの頃同級野球部美少年桐原真二遊撃手)に惹かれ同性愛的思慕持ったこの年から兄・謙一は結核性リンパ腺炎で手術重ねた1918年大正7年4月5年生進級した次郎も、潜伏していた結核性の病で寝込むようになり、1学期33日間欠席したその時に兄に差し出され森鷗外の『水沫集』(舞姫うたかたの記、文づかひ、玉を懐いて罪あり地震収録)、邦訳即興詩人』を読んだのをきっかけに、読書傾向が『少年倶楽部』から文学作品変った同年6月頃から兄が兵庫県武庫郡埼町野寄現・神市東灘区本山町野寄)の池田鹿三郎(父の取引先運送会社人物友人)宅に書生として寄宿した。基次郎も時々そこに遊び行き池田家神戸一中(現・兵庫県立神戸高等学校)に通う保と二郎の兄弟と交流した。健康を取り戻した次郎は、9月新学期から平常どおりに通学した。兄が同級橋田から借りた夏目漱石全集漱石全集』を基次郎読んだ

※この「再び大阪――北野中学転入」の解説は、「梶井基次郎」の解説の一部です。
「再び大阪――北野中学転入」を含む「梶井基次郎」の記事については、「梶井基次郎」の概要を参照ください。

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