八戸事件
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八戸事件[※ 1]は、同治5年12月(1867年1月)に清国広州の新聞『中外新聞』に掲載された、「八戸順叔」なる香港在住の日本人が寄稿した征韓論の記事がきっかけとなり、日本と李氏朝鮮および清国との間の外交関係を悪化させた事件である。征韓論は江戸時代末期(幕末)の吉田松陰や勝海舟らの思想にその萌芽が見られるが、現実の外交問題として日清朝三国に影響を及ぼしたのはこの八戸事件が最初である[1]。さらにこの事件はその後も10年近く尾を引き、後の江華島事件における両国間交渉にまで影響を及ぼした。
- ^ 本文中でも触れている通り、事件の原因となった記事の筆者「八戸順叔」の読み方が不明なため、本項では記事名の読みを掲示していない。
- ^ 礼部は中国の伝統的な行政機関「六部」の一つで、朝鮮や安南・琉球など朝貢国との外交を司る役所である。それに対し第二次アヘン戦争後に設立された総理各国事務衙門は、英・仏・米など近代的な条約を締結した「有約通商之国」との外交(=洋務)を扱った。総理衙門設立後も、朝鮮などの朝貢国への文書は従来通り、礼部から発せられる咨文という形式がとられた。朝貢国・有約通商之国のどちらにも属さない日本は、「無約通商之国」を目指して清と交渉中であった(詳細は広東システム#総理衙門創設と上海システムを参照)。
- ^ 李鴻章が初めて出会った日本人は、1870年に日清修好条規の交渉のために渡清した外務大丞柳原前光らであったと思われる。佐々木2000、24頁。
- ^ この新聞照録5件のうち、3件は丙寅洋擾(フランス)関連、2件が八戸記事関連であった。
- ^ 八戸の記事が掲載されたのとほぼ同時期に将軍となった徳川慶喜は、就任以前から京都に長期滞在しており、在任中江戸へ戻ることはなかった。
- ^ 原田1997、141頁は、八戸の記事が載った新聞を『中外新聞七日報』としている。
- ^ 『国際人事典』は、八戸喜三郎の読みを「やと きさぶろう」としている。
八戸事件
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「ユージン・ヴァン・リード」の記事における「八戸事件」の解説
慶応3年(事件が起きた中国では同治5年)12月(1867年1月)、香港在住の日本人八戸順叔が清国の新聞に征韓論の記事を載せて外交問題となった(八戸事件)。八戸順叔の正体は不明だが、同一人物と目される八戸喜三郎は1865年のヴァン・リードの帰国に随行して渡米し、翌年ともに再び極東に戻っている(途中2人が乗る船がウェーク島附近で座礁沈没し、グアムまで漂流したという)。
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