入門から入幕まで
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千葉市立幕張中学校出身。1980年3月場所、佐渡ヶ嶽部屋から初土俵を踏んだ。初土俵の同期生には、日本大学出身の学生横綱で幕下付出デビューの花嵐一美(現・プロレスラーの大黒坊弁慶)がいる。素質に恵まれていたため、新弟子の頃より期待される。当初は「琴大杉」を名乗っていたが、十両目前の西幕下2枚目まで上がった1986年3月場所に琴富士に改名。同年11月場所で新十両に昇進した。この翌年の1987年の9月場所12日目には、南海龍を相手に当時まだ2回しか決まっていなかった合掌捻りを決めた。(なお、この決まり手は、この取り組み以後、1度も出ていない。)新入幕を果たした1988年9月場所では、11勝4敗と大勝ちして敢闘賞を受賞。1990年7月場所には関脇に昇進するが4勝11敗と大きく負け越して1場所で陥落、その後は前頭の上位と下位の往復を繰り返していた。
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入門から入幕まで
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2015年3月場所にて初土俵。初めて番付に四股名が載った5月場所では7戦全勝で序ノ口優勝を果たした。7月場所は東序二段10枚目で迎え、7戦全勝で千秋楽の優勝決定戦に進出したが、大輝(のち北勝富士)に敗れ、序ノ口、序二段の連続優勝を逃した。西三段目18枚目で迎えた9月場所は6日目に荒篤山に寄り倒され本割での連勝が16でストップし、最終的に5勝2敗の成績で終えた。東幕下54枚目で迎えた11月場所は7戦全勝で千秋楽の優勝決定戦に進出したが、同部屋の芝に敗れ優勝を逃した。「自分は相撲を取って強くなってきたわけではない」と相撲の稽古よりも体作りに軸足を置いており、入門後も申し合いの番数は10数番と決して多くはないが「自分で考えて工夫しながら毎日、取っている」と木瀬からは評されている。 2016年1月場所は、8日目に栃丸に敗れるも6勝1敗で並んだ8人による優勝決定戦に進出した。同部屋の濱口(のち志摩ノ海)、照強と破ったが決勝で栃丸に本割に続いて敗れ優勝を逃した。2月11日に行われたNHK福祉大相撲の幕下優秀力士トーナメントで優勝した。新十両が狙える地位である西幕下2枚目で迎えた3月場所は、9日目に幕下優勝の佐藤(のち貴景勝)に敗れたものの6勝1敗で終えた。3月場所後に行われた5月場所番付編成会議で新十両昇進が決まった。新十両となる5月場所は10勝5敗で2けた白星を挙げた。続く7月場所は初日に付け人の手違いで、兄弟子・臥牙丸の化粧まわしをつけて土俵入り、9日目に右足首を痛めたもののそのまま皆勤して11勝4敗の好成績。翌9月場所は東十両筆頭と、もし半枚上昇幅が大きければ兄弟子の常幸龍に並ぶ前相撲から所要9場所での新入幕で前相撲からのスピード入幕記録1位タイとなるところであったが、本人は「狙っていったわけではないですし、あくまで結果論です」と2017年のインタビューで答えている東十両筆頭と新入幕目前の地位で迎えた9月場所では3日目から入門後初めての連敗を経験し、最終的に6勝9敗と自身初めての負け越しに終わった。10日目の豊響戦は5日目の大栄翔戦に次ぐ自身2度目の中入り後の取組であり、この取り組みに勝って自身初となる懸賞金を獲得(3本)。この場所中には左手甲付近を骨折しており、場所直後に手術を受けた。 2017年の年明けは再び幕内目前の東十両3枚目の地位で迎えた。1月場所では13日目に、1955年に日本相撲協会が公式に決まり手を発表するようになって以降の十両以上の取組では初めてとなる、襷反りを天風に対して決めた。14日目終了時点で3敗で大栄翔と並び優勝争いのトップだったが、千秋楽で里山に敗れ、大栄翔は勝利したため十両優勝とはならなかった。それでも11勝4敗の好成績で終え、翌3月場所での新入幕を決めた。この新入幕によって宇良は部屋頭となった。「2年で関取になる」と公言していたが、実際は関取どころか新入幕を果たしており、この時点で史上7位タイとなる初土俵から所要12場所でのスピード記録であった。
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