入門から現役引退まで
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大学卒業後は九州電力への入社が内定していたが田宮や加藤が角界入りしたことに触発されたため、内定を返上して追手風部屋に入門し、1999年3月場所に幕下付出で初土俵を踏んだ。 以降、順調に番付を上げて行き、2000年7月場所に十両に昇進し四股名を『濱錦』へ改名。大学の先輩でもあり私生活でも親交があった柳川信行はある日電車で高濱と話していた際に師匠の先代三保ヶ関の実父である増位山大志郎が若名乗りとして使っていた四股名「濱錦」の話題を出したことがあり、験担ぎのつもりで柳川が襲名を薦めたという。数日後、先代三保ヶ関は三保ヶ関部屋ゆかりの四股名であるにも拘らず襲名をあっさりと認めたという。2001年5月場所には新入幕を果たした。四つ相撲で一時は幕内に定着しかけたが、2002年7月場所を最後に十両に陥落。十両に下がっていた2003年7月場所には右膝を故障して幕下まで陥落した。 2004年1月22日の1月場所12日目に日本大学の先輩である増健との取組に叩き込みで敗れた取組が無気力相撲であったとして当時の九重審判部副部長と伊勢ノ海監察委員長から増健とともに厳重注意を受けた。2005年11月場所から四股名を本名の『高濱』に戻した。 2006年11月場所は東幕下28枚目で全休したため、2007年1月場所では、自身初の三段目(8枚目)に陥落、その場所も1番相撲の不戦敗の後全休し、3月場所では68枚目まで番付を落とした。その後は三段目での勝ち越しや負け越しの状態が続いたが、2008年1月場所は6勝1敗と久々に好成績を挙げ、3月場所において幕下に復帰した。 2009年7月場所に再び四股名を濱錦に戻した。2011年1月場所では東幕下15枚目で4勝3敗と、2005年3月場所以来となる幕下15枚目以内での勝ち越しを果たした。5月技量審査場所で再び勝ち越しを決め、大相撲八百長問題で多くの力士が引退した影響もあり、7月場所で十両に再昇進した。所要39場所での再十両は当時の史上最長記録となった(現在は千代嵐の50場所)。しかしその後は2場所連続で負け越して11月場所では幕下に戻った。 2012年1月場所に東幕下20枚目で3勝4敗と負け越したのを最後に、同年2月22日の日本相撲協会理事会において、2月29日付で引退し年寄春日山(21代)を襲名することが承認された。これにより、協会理事に専念する16代雷(元春日富士)に代わり、春日山部屋の師匠となった。
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