入内・立后
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長徳元年(995年)、彰子8歳の時に、父・道長が内覧の宣旨を受ける。長保元年(999年)2月9日、裳着を終えた後、同11日に一条天皇から従三位に叙せられる。同年11月1日、一条天皇に入内し、同月7日に女御宣下をうけた。このとき彰子は弱冠12歳であった。 彰子の入内当時、一条天皇の後宮にはすでに正暦元年(990年)に中宮として冊立されていた藤原定子のみならず、藤原元子、藤原義子、藤原尊子が女御として入内していた。しかし、彰子入内以前の長徳2年5月、中宮である定子は、一条天皇の命をうけた検非違使によって兄弟の藤原伊周と藤原隆家が訴追(長徳の変)されたことに衝撃を受けて出家する。定子は一条天皇の第一子・脩子内親王を出産し、彰子の女御宣下と同じ長保元年11月7日に第一皇子・敦康親王を出産するも、僧形にあったため、公家社会の反発と支持の低下を招いていく。同時期、一条天皇の寵愛を受けていた藤原元子は懐妊中に子が水となって流れたことにより里居しており、藤原尊子も内裏を退下していたとみられ、藤原義子は懐妊しなかった。 これを背景に、当時の蔵人頭であった藤原行成が、まだ皇子出産の可能性のない彰子の後宮での存在感を高めたい道長の意図も汲み、長保2年正月に一条天皇に対して彰子立后の意見具申を行う。すぐに彰子に対して一条天皇から立后兼宣旨が下り、長保2年2月25日(1000年4月2日)に立后の儀が執り行われ、中宮に冊立される。このとき、后位にあった定子が存命していたため、これは史上初の一帝二后とされる。 しかし、一帝二后の期間は短く、彰子が中宮に冊立されて一年も経たない長保2年12月、藤原定子は難産で崩御する。彰子は一条天皇の唯一の正室となった。
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