入内・立后とは? わかりやすく解説

入内・立后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:42 UTC 版)

藤原彰子」の記事における「入内・立后」の解説

長徳元年995年)、彰子8歳時に、父・道長内覧の宣旨を受ける。長保元年999年2月9日裳着終えた後、同11日一条天皇から従三位叙せられる。同年11月1日一条天皇入内し、同月7日女御宣下をうけた。このとき彰子弱冠12歳であった彰子入内当時一条天皇後宮にはすでに正暦元年990年)に中宮として冊立されていた藤原定子のみならず藤原元子藤原義子藤原尊子女御として入内していた。しかし、彰子入内以前長徳2年5月中宮である定子は、一条天皇の命をうけた検非違使によって兄弟藤原伊周藤原隆家訴追長徳の変)されたことに衝撃受けて出家する定子一条天皇第一子脩子内親王出産し彰子女御宣下と同じ長保元年11月7日第一皇子敦康親王出産するも、僧形にあったため、公家社会反発支持低下招いていく。同時期、一条天皇寵愛受けていた藤原元子懐妊中に子がとなって流れたことにより里居しており、藤原尊子内裏退下していたとみられ、藤原義子懐妊しなかった。 これを背景に、当時蔵人頭であった藤原行成が、まだ皇子出産可能性のない彰子後宮での存在感高めたい道長意図汲み長保2年正月一条天皇に対して彰子立后意見具申を行う。すぐに彰子に対して一条天皇から立后兼宣旨下り長保2年2月25日1000年4月2日)に立后の儀が執り行われ中宮冊立される。このとき、后位にあった定子存命していたため、これは史上初の一帝二后とされる。 しかし、一帝二后の期間は短く彰子中宮冊立されて一年経たない長保2年12月藤原定子難産崩御する彰子一条天皇唯一の正室となった

※この「入内・立后」の解説は、「藤原彰子」の解説の一部です。
「入内・立后」を含む「藤原彰子」の記事については、「藤原彰子」の概要を参照ください。

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