藤原定子
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藤原 定子(ふじわら の さだこ/ていし[1]、977年〈貞元2年〉-1001年1月13日〈長保2年12月16日〉[注釈 1])は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は一条院皇后宮。
注釈
- ^ 享年は同時代の公卿・藤原行成の日記『権記』による(『大鏡裏書』『一代要記』は入内の時14歳とするため『権記』の記す享年24と符合する)。『日本紀略』『扶桑略記』『栄花物語』は25とする。
- ^ 一条天皇の元服は同年1月5日(990年2月3日)。貴人の元服の夜には添臥とよばれる女性が参上し、そのまま正妻となることが多かった。定子も添臥であった可能性が高い。
- ^ 『栄花物語』は定子の立后を6月1日(6月25日)とし、それが彼女の祖父兼家の病中であったにもかかわらず、外戚の高階氏が道隆を唆して立后を強行させたため、世の非難を浴びたという。だが、実際には定子立后は10月5日(10月26日)で兼家の死後数カ月経っている。
- ^ 「驚奇少なからず」「皇后四人の例、往古聞かざる事成」[2]
- ^ 『栄花物語』も、一条天皇の言葉として「心ばへのおとなおとなしうあはれなる方は誰かまさらむ」(思慮分別があってしみじみと情け深い点では、彼女に勝る人はいるのだろうか)の定子評を伝えている。
- ^ 『無名草子』の女性作者は一条天皇と定子の理想的な関係を「皇后宮、御みめもうつくしうおはしましけるとこそ。院も、いと御志深くおはしましける」と羨み、上東門院との比較では「今少しめでたくおはしましける」と評した。同様の描写は男性の手になる『大鏡』・『愚管抄』・『発心集』にもみられる。
- ^ 中宮の御在所を兵士を率いて囲んだのは『政事要略』の作者惟宗允亮。渡来系の明法家。
- ^ 大江匡衡は、長保元年6月14日(999年7月29日)の内裏焼亡後、「白馬寺の尼、宮に入りて唐祚亡びし由あり、皇后の入内を思ふに、内の火の事は旧事を引けるか」と藤原行成に語り、中宮定子を唐を滅亡させた高宗の悪妻則天武后になぞらえ、彼女が出家の身で後宮に入ったから内裏が焼けたのだとして痛烈に非難した[5]。また藤原実資は、皇子出産に際し中宮定子を「横川の皮仙」、すなわち「出家らしからぬ出家」と皮肉る世間の言葉を書き留めている[6]。
- ^ 大僧正観修勅命を受け加持し奉ったが蘇生ならなかった。
- ^ 詞書「一条院の御時、皇后宮かくれたまひてのち、帳の帷の紐に結びつけられたる文を見つけたりければ、内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に、歌三つ書きつけられたりける中に」、作者名記載なし。『今昔物語集』などに取材されて非常に有名な辞世となった。流布本『栄花物語』が記す「知る人もなき別れ路に今はとて 心細くもいそぎたつかな」(同じく『後拾遺集』に採られる)、「煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれと眺めよ」の三首のほか、別本系統である富岡本には「なき床に枕とまらは誰か見て つもらむ塵をうちもはらはむ」の一首も見え、鎌倉時代になって『続古今集』に入集した。
- ^ 不本意な人生を月に重ねて見た三条院の歌と対をなす。
- ^ しかし、『大日本史』が載せる一条天皇の詔には、脩子内親王が宮中で育ったと書かれ、『栄花物語』にもそのように思える節があるため、再考が必要。
出典
定子(さだこ / ていし)
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「暴れん坊少納言」の記事における「定子(さだこ / ていし)」の解説
一条天皇の第一皇妃。最初は中宮であるが後に皇后宮に奉り上げられる、本物語のヒロイン的存在。退屈しのぎに開いた歌合で、無骨者の則光に見せ場を作った諾子を気に入り、女房として登用する。
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