保護主義と公正貿易運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 16:17 UTC 版)
19世紀後半からは、不況の影響で農業と工業における保護主義がすすむ。アメリカの穀物や食肉輸出はヨーロッパへ向けられ、ロシアの穀物輸出も増加して、ヨーロッパは農業不況にみまわれた。1873年恐慌が起きると、工業の保護の要求も高まった。1878年にはイタリアの保護関税法、1879年にドイツの農工保護関税法、1881年にフランスの農業関税率引き上げ、1890年にロシアの保護関税法とアメリカのマッキンリー関税法(英語版)、92年にフランスでメリーヌ関税が相次いだ。 こうした状況のなかでイギリスは自由貿易を継続して、他国からの工業製品の輸入が急増する。イギリス国内では一方的な自由貿易に対する批判が起きて、国民公正貿易運動と呼ばれる動きにつながった。20世紀初頭には、イギリス帝国の統一を強化するための保護主義として関税改革運動も起きた。しかしイギリス経済は製造業にかわって金融業が成長をしており、ロンドンのシティを中心とする国外投資収益がGDPの6.8パーセントを生み出す時代に入っていた。1906年の総選挙で関税改革運動を主張した保守党は大敗し、自由貿易は維持された。関税改革運動は、世界恐慌後の帝国特恵制度へ引き継がれることになる。
※この「保護主義と公正貿易運動」の解説は、「保護貿易」の解説の一部です。
「保護主義と公正貿易運動」を含む「保護貿易」の記事については、「保護貿易」の概要を参照ください。
- 保護主義と公正貿易運動のページへのリンク