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京都大学教授へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/25 14:14 UTC 版)

前田敏男」の記事における「京都大学教授へ」の解説

終戦混乱の中で1946年昭和21年)、在満中に得た家族‐妻乳飲み子を含む3人の子供‐とともに帰国郷里高知ひとまず落ち着く。このときそれまで集めた文献資料をすべて失う。1947年昭和22年4月高知県土木事務嘱託同年6月戦災復興院(のちに建設省建築研究所改称事務嘱託となる。1948年昭和23年12月大阪大学助教授1950年昭和25年4月京都大学助教授京大では建築設備講座担当したが、これは師の藤井厚二担当していた講座であり1938年昭和13年)に藤井病没して空席のままであったから前田その実質的な後継者となった1950年昭和25年4月工学博士取得同年7月教授1952年昭和27年5月、「建築物の熱的性状に関する基礎的研究」により建築学会賞受賞1963年昭和38年10月、「間仕切り壁周期的熱伝導図表」により空気調和・衛生工学会賞受賞1967年昭和42年4月京大工学部長を併任当時学生運動盛んな時代退任まで2年間、奥田東総長助けて紛争収拾尽力する1969年昭和44年12月奥田の後を受け、京都大学総長(第18代)に就任任期4年間をなお燻ぶる大学紛争終結努める。この間1969年1月から1970年12月までは、日本建築学会会長の任にもあたっている。1973年昭和48年12月総長退任京都大学名誉教授に。退官後は、引き続き後進の指導に当たるとともに日本建築総合試験理事長京都市芸術文化協会理事長など多く公職歴任した1975年昭和50年5月、「建築環境工学における理論体系発展対す貢献」により日本建築学会大賞受賞1980年昭和55年)、勲一等瑞宝章受章1991年平成3年7月24日京大医学部付属病院において死去享年83家族は、妻等(ひとし)との間に一女二男長女清水民子保育心理学専門家で、神戸大学教授などを歴任

※この「京都大学教授へ」の解説は、「前田敏男」の解説の一部です。
「京都大学教授へ」を含む「前田敏男」の記事については、「前田敏男」の概要を参照ください。

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