京都大学教授へ
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終戦の混乱の中で1946年(昭和21年)、在満中に得た家族‐妻と乳飲み子を含む3人の子供‐とともに帰国、郷里高知にひとまず落ち着く。このときそれまで集めた文献資料をすべて失う。1947年(昭和22年)4月、高知県土木部事務嘱託、同年6月、戦災復興院(のちに建設省建築研究所に改称)事務嘱託となる。1948年(昭和23年)12月、大阪大学助教授。1950年(昭和25年)4月、京都大学助教授。京大では建築設備講座を担当したが、これは師の藤井厚二が担当していた講座であり1938年(昭和13年)に藤井が病没して空席のままであったから前田はその実質的な後継者となった。1950年(昭和25年)4月、工学博士号取得。同年7月、教授。1952年(昭和27年)5月、「建築物の熱的性状に関する基礎的研究」により建築学会賞受賞。1963年(昭和38年)10月、「間仕切り壁の周期的熱伝導の図表」により空気調和・衛生工学会賞受賞。 1967年(昭和42年)4月、京大工学部長を併任、当時は学生運動が盛んな時代で退任まで2年間、奥田東総長を助けて紛争収拾に尽力する。1969年(昭和44年)12月、奥田の後を受け、京都大学総長(第18代)に就任、任期の4年間をなお燻ぶる大学紛争の終結に努める。この間1969年1月から1970年12月までは、日本建築学会会長の任にもあたっている。1973年(昭和48年)12月、総長退任、京都大学名誉教授に。退官後は、引き続き後進の指導に当たるとともに、日本建築総合試験所理事長、京都市芸術文化協会理事長など多くの公職を歴任した。1975年(昭和50年)5月、「建築環境工学における理論体系の発展に対する貢献」により日本建築学会大賞を受賞。1980年(昭和55年)、勲一等瑞宝章受章。 1991年(平成3年)7月24日、京大医学部付属病院において死去。享年83。 家族は、妻等(ひとし)との間に一女二男。長女の清水民子は保育心理学の専門家で、神戸大学教授などを歴任。
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