中期:党の分裂と人民戦線政権とは? わかりやすく解説

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中期:党の分裂と人民戦線政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 04:13 UTC 版)

フランス社会党 (SFIO)」の記事における「中期:党の分裂と人民戦線政権」の解説

大戦末期になると戦争協力対す党内外からの批判強くなり、またロシア革命による社会主義国家樹立影響して1918年には反戦少数派のフロッサール(Ludovic-Oscar Frossard)が書記長選ばれた。さらに社会主義脅威煽るクレマンソー戦術により大戦終結後1919年総選挙SFIO大敗下院議席68激減させた。これらの結果党内ではコミンテルン共産主義インターナショナル)を支持する左派が力を拡大し、翌1920年12月トゥール党大会において、同年コミンテルン第2回大会参加したフロッサールおよびマルセル・カシャン(Marcel Cachin)が主導権掌握してコミンテルンへの加盟決議党名を「共産主義インターナショナル・フランス支部」(フランス共産党 / SFIC、Section Française de l'Internationale Communiste)と改称した同時に機関紙『リュマニテ』編集部共産主義者によって掌握されたため、以降同紙はフランス共産党機関紙となった)。このときジョレス伝統継承しコミンテルンへの加盟反対したレオン・ブルムポール・フォールPaul Faure)ら少数派社会民主主義者SFIOの名称を維持し社会党組織守ったが、分裂結果党員20,000激減した。 しかし、それ以後共産党伸び悩み比してSFIO党勢次第回復し1932年には党員137,000下院議席129有する大政になったSFIO当初共産党対立しつつ、急進社会党政権閣外から協力することもあった一方で、ゲード派を継承する極左派やナチス影響受けたマルセル・デア(Marcel Déat)らの「ネオソシアリスト」(Neosocialist)を排除しつつ、中道立場守ったその後共産党社会ファシズム論社民派主敵論)を捨ててSFIOとの協調転じたため、1934年労働総同盟呼びかけによる統一デモきっかけに社共両党の統一戦線成立、さらに急進社会党をも巻きこむ人民戦線運動展開された。1936年4月5月総選挙SFIO第一党149議席人民戦線派は386議席)となり、党首ブルム首班とする人民戦線内閣樹立されニューディール的な「購買力理論」に基づく銀行国有化政策などの恐慌対策進めたが、スペイン内戦への対応などをめぐる政権内部対立背景に翌1937年6月崩壊した1940年夏のナチス・ドイツへの敗北で党は再び分裂したが、それはペタン元帥によるヴィシー政府樹立への対応をめぐるものであり、フォールSFIO所属国会議員多数ペタンへの全権委任賛成票を投じたのに対し37名の少数派議員反対投票行い、対独抵抗主張していたブルムヴィシー政府逮捕された。そしてドイツによる占領中、多く党員自由フランスなどのレジスタンス運動参加し多大な貢献をなした。

※この「中期:党の分裂と人民戦線政権」の解説は、「フランス社会党 (SFIO)」の解説の一部です。
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