中期:党の分裂と人民戦線政権
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「フランス社会党 (SFIO)」の記事における「中期:党の分裂と人民戦線政権」の解説
大戦末期になると戦争協力に対する党内外からの批判が強くなり、またロシア革命による社会主義国家樹立も影響して1918年には反戦少数派のフロッサール(Ludovic-Oscar Frossard)が書記長に選ばれた。さらに社会主義の脅威を煽るクレマンソーの戦術により大戦終結後の1919年総選挙SFIOは大敗、下院の議席を68に激減させた。これらの結果、党内ではコミンテルン(共産主義インターナショナル)を支持する左派が力を拡大し、翌1920年12月のトゥール党大会において、同年のコミンテルン第2回大会に参加したフロッサールおよびマルセル・カシャン(Marcel Cachin)が主導権を掌握してコミンテルンへの加盟を決議、党名を「共産主義インターナショナル・フランス支部」(フランス共産党 / SFIC、Section Française de l'Internationale Communiste)と改称した(同時に機関紙『リュマニテ』編集部も共産主義者によって掌握されたため、以降同紙はフランス共産党機関紙となった)。このときジョレスの伝統を継承しコミンテルンへの加盟に反対したレオン・ブルム、ポール・フォール(Paul Faure)ら少数派の社会民主主義者はSFIOの名称を維持し社会党の組織を守ったが、分裂の結果党員は20,000に激減した。 しかし、それ以後の共産党の伸び悩みに比してSFIOは党勢を次第に回復し、1932年には党員137,000、下院議席129を有する大政党になった。SFIOは当初は共産党と対立しつつ、急進社会党の政権に閣外から協力することもあった一方で、ゲード派を継承する極左派やナチスの影響を受けたマルセル・デア(Marcel Déat)らの「ネオソシアリスト」(Neosocialist)を排除しつつ、中道の立場を守った。その後、共産党が社会ファシズム論(社民派主敵論)を捨ててSFIOとの協調に転じたため、1934年、労働総同盟の呼びかけによる統一デモをきっかけに社共両党の統一戦線が成立、さらに急進社会党をも巻きこむ人民戦線運動が展開された。1936年4月〜5月の総選挙でSFIOは第一党(149議席、人民戦線派は386議席)となり、党首ブルムを首班とする人民戦線内閣が樹立され、ニューディール的な「購買力理論」に基づく銀行国有化政策などの恐慌対策を進めたが、スペイン内戦への対応などをめぐる政権内部の対立を背景に翌1937年6月に崩壊した。1940年夏のナチス・ドイツへの敗北で党は再び分裂したが、それはペタン元帥によるヴィシー政府樹立への対応をめぐるものであり、フォールらSFIO所属国会議員の多数がペタンへの全権委任に賛成票を投じたのに対し、37名の少数派議員は反対投票を行い、対独抵抗を主張していたブルムはヴィシー政府に逮捕された。そしてドイツによる占領中、多くの党員は自由フランスなどのレジスタンス運動に参加し多大な貢献をなした。
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