三島由紀夫との関わりとは? わかりやすく解説

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三島由紀夫との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 05:27 UTC 版)

松尾聰」の記事における「三島由紀夫との関わり」の解説

学習院高等科時代教え子であった三島由紀夫は、松尾について次のように述懐している。 「 松尾先生には学習院で、国文法万葉集などを教わった。実に散文的講義で、やわらかい少年感受性訴えるものは一つもなく、少年の頭で考えると、全然不文学的な講義思えた。その上先生は点が辛く皮肉屋イジワルだった。そうかと云って、先生人気がないというのではなかった。お茶坊主教師に却って人気がなく、一部クツ学生は、ますます松尾先生の肩を持ったどういうわけか、先生渾名ポンタと云った。この芸者みたいな渾名と、先生学究的風格とは、全然合わないようでいて、どこか先生とぼけた一面あらわしているところが面白い。先生逐条主義的な講義は、あとになってみると、いわゆる文学的感受性訴え情緒的講義よりも、はるかにになっているのがふしぎである。先生のは、古典自分で読む力を鍛え講義だった。従ってスパルタ的で無味乾燥であるが、西欧大学ラテン語ギリシア語講義だって、入門段階ではもっと無味乾燥であろうから、その段階で日本の古典嫌いになる奴は嫌いになればいいのである。 」 —三島由紀夫松尾先生のこと」(松尾聰『全釈源氏物語付録2 1959年より) 松尾は、三島事件後回想三島教えがいのある生徒だったと回想している(『随筆語典あいうえおなど』より)。 同じ教え子であった三谷信宛て三島書簡集級友三島由紀夫』(笠間書院1986年)を刊行した際に序文寄せたが、夫人平岡瑤子出版許可拒絶されて、直ち絶版となった。なお、両者没後1999年冬に、中公文庫再刊された(三谷翌年7月没した)。現行版は『決定版 三島由紀夫全集38書簡集』(新潮社)に所収1944年昭和19年)に発表され短編朝倉」は、松尾による散佚物語朝倉」についての研究論文を基に三島執筆した小説である。

※この「三島由紀夫との関わり」の解説は、「松尾聰」の解説の一部です。
「三島由紀夫との関わり」を含む「松尾聰」の記事については、「松尾聰」の概要を参照ください。

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