さんにん‐づかい〔‐づかひ〕【三人遣い】
三人遣い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:57 UTC 版)
本作を日本演芸史上特筆すべきものとしているのは、操演において初めて三人遣いが行われたと伝えられた点である。 これは寛政末年(1800年)頃刊行された『浄瑠璃譜』(『諸事聞書往来』)の …芦屋道満大内鑑杯(など)は人形遣ひはなはだ上手となり与勘平・弥勘平の人形は、足・左りを外人につかわし、人形の腹働くやうに拵そむる也。是を操り三人懸りの始と云ふ という記述、および宝暦7年(1757年)刊行の『外題年鑑』の 今度与勘平より人形の腹ふくるゝように仕初る に依っている。 ただ、『浄瑠璃譜』は本作の初演から70年近く後の本であり、それよりも前に刊行されている『外題年鑑』で与勘平人形に触れていながら、三人遣いへの言及がないこともあり、本作が三人遣いの初めとすることついて、多くの論考が重ねられてきた。 その中で次のようなことが明らかになっている。 「人形操り」というカテゴリーで見ると、三人遣いの先行事例はあった(=本作が「史上初」ではなかった) 先行事例は操演方法が現在の人形浄瑠璃と異なる 三人遣いは歌舞伎でいうところの「差し駕籠」の演技で必要とされた 三人遣いの先行事例とは、延宝から元禄年間(1680 - 1690年頃)、江戸で人形操りの説経節の興行を行っていた江戸孫四郎座の芝居のことをいう。人形を操演者3人で扱う様子が描かれた江戸孫四郎座の舞台絵図が古山師重の画集『役者絵尽し』に収録され、さらに斎藤月岑・編『声曲類纂』(弘化4年=1847年・刊)にはこの絵の模写が掲載されている。この『声曲類纂』の図には「こゝにのみ三人遣いの人形あり可也」と欄外に記されている。『役者絵尽し』の正確な刊行年は不明だが、描かれている役者の名前から推定して、元禄8年(1695年)以前であることが明らかにされており、本作初演より少なくとも40年前の時点で、すでに三人遣いの人形操りが存在したことになる。 この江戸孫四郎の絵を見ると、それぞれ人形の「両手担当」「両足担当」「胴を支える担当」の3人が描かれている。現代の浄瑠璃人形は「主遣い(胴串・頭と右手担当)」「左遣い(左手担当)」「足遣い(両足担当)」の役割分担で動かされているので、同じ三人遣いといっても江戸孫四郎の事例とは異なる。江戸孫四郎の三人遣いでは、現代の浄瑠璃に比べ操演者の移動に大きな制限が生じ、演技が制約される。このことが原因で広く流布することなく、衰退したとする説が唱えられている。 なぜこの作品で新たに三人遣いが必要とされたのかであるが、通説では、『浄瑠璃譜』『外題年鑑』の両方に記述ある、いわゆる「差し駕籠」の場面で与勘平・野干平の腹が膨れたように見せるためとされている。しかし、与勘平・野干平が駕籠を高く差し上げる表現のため、三人遣いが必要であったとする説もある。
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