ワックスホーの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/08 14:13 UTC 版)
「バナスター・タールトン」の記事における「ワックスホーの戦い」の解説
1780年5月29日、タールトンは150騎の騎馬隊を引き連れ、エイブラハム・ビュフォード率いるバージニア地域大陸軍の350名なし380名の分遣隊に追いついた。ビュフォードは降伏を拒み、行軍を続けようとした。しかし多くの犠牲者を出したビュフォードは降伏を告げた。その直後に起こったことは今でも議論の種になっている。アメリカ側の証言では、タールトンが白旗を無視して捕虜を慈悲も無く虐殺したことになっている。結局113名の大陸軍兵が殺され、203名が捕虜になった。捕虜のうちの150名は重傷を負っており、その場に残さざるを得なかった。タールトン部隊の損失は5名が戦死、12名が負傷だった。イギリス軍はこの事件を「ワックスホー・クリークの戦い」と呼び、一方アメリカ側は「ビュフォード虐殺」あるいは「ワックスホーの虐殺」と呼んだ。 ロバート・ブラウンフィールドという大陸軍従軍医によるこの現場でのタールトンの行動に関する叙述では、ビュフォード大佐が降伏の白旗を掲げ、「文明社会の戦争で認められた通常の待遇を期待していた。」ビュフォードが命乞いをしているときに、タールトンの馬がマスケット銃弾を浴びて倒れた。このことでロイヤリストの騎兵たちは、反乱軍が命乞いしている間に自分達の指揮官を撃ったという印象を抱いた。怒ったロイヤリストはバージニア兵に襲い掛かった。ブラウンフィールドに拠れば、ロイヤリストが攻撃し、「最も残酷な野蛮人の最も見境の無い残虐行為でもそれまで無かったような無差別の大虐殺」を実行した。 タールトンの兵士は傷ついて横たわる大陸軍兵を突き殺した。タールトン自身の証言では、事実上虐殺を認め、彼の騎乗する馬が最初の突撃時に銃弾を浴び、彼が死んだものと信じ込んだ部下達が「簡単には止められないような報復の執念に」陥った。 ワックスホーの虐殺は大陸の革命家達の間で重大な反感の声となった。それまで多かれ少なかれ中立的な立場にいた者達まで、この虐殺を知った後は革命の熱心な支持者となった。戦争の残りの期間、「タールトンの慈悲」あるいは「無慈悲」という言葉は、イギリス軍やロイヤリストの兵士に慈悲を与えないことを意味し、大陸の愛国者達のスローガンになった。特に1780年10月7日のキングスマウンテンの戦いでは、大陸軍によるロイヤリストの虐殺に繋がった。この戦闘に参加した両軍の兵士は一人のイギリス軍士官を除いて全てが植民地人だった。
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