キングスマウンテンの戦いとは? わかりやすく解説

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キングスマウンテンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 08:54 UTC 版)

キングスマウンテンの戦い(キングスマウンテンのたたかい、英:Battle of Kings Mountain)は、アメリカ独立戦争中の1780年10月7日南部戦線ノースカロライナキングスマウンテンで、愛国者(アメリカ独立を志向する者)軍民兵と王党派(イギリスへの忠誠を重んじ、独立を志向しない者)軍民兵の間で戦われた戦闘である。愛国者軍の勝利によって、イギリス軍南部方面軍指揮官のチャールズ・コーンウォリスが当てにしていた王党派の支援が潰えてしまったことで重要な意味がある。後にセオドア・ルーズベルトは「アメリカ独立戦争の転換点となった輝かしい勝利だ」と書き記した。




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キングスマウンテンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 18:57 UTC 版)

アイザック・シェルビー」の記事における「キングスマウンテンの戦い」の解説

シェルビークラークはマスグラブミルの戦いで逃亡したイギリス兵を追わないことにした。その代わりにナインティシックスにあるイギリス軍の砦を標的にすることにした。そこでならファーガソン見付けられると考えた。しかし、そこへ向かう途中でホレイショ・ゲイツ将軍キャムデンの戦い敗れたという報せ入ったチャールズ・コーンウォリス将軍後ろ盾得てファーガソンはその全軍シェルビー隊に向かってくる可能性があったので、シェルビーアパラチア山脈越えてノースカロライナ退いた植民地軍撤退すると、大胆になったファーガソン釈放した捕虜1人に山を越えさせ、植民地軍にその抵抗止めること、さもないと田畑荒らすぞと警告してきた。このことに怒ったシェルビージョン・セビアイギリス軍対す次の襲撃作戦立て始めたシェルビーとセビアはそれぞれ240名の兵士集め、これにバージニアワシントン郡からウィリアム・キャンベル400名、ノースカロライナバーク郡とラザフォード郡からチャールズ・マクドウェルの160名が合流した。この部隊9月25日にシカモアショールズに結集した続いてブルーリッジ山脈剣呑な地形を過ぎ、9月30日ノースカロライナのモーガントン近くにあるマクドウェルの領地到着した。ここではサリー郡ウィルクス郡からベンジャミン・クリーブランド大佐とジョセフ・ウィンストン少佐率い350名が合流した合流した部隊ファーガソン隊をキングスマウンテンに追跡した。そこではファーガソン防御施し、「全能なる神と地獄からの反逆者」でなければ、そこから排除することはできない宣言していた。キングスマウンテンの戦いは1780年10月7日始まったシェルビーはその部隊樹木から樹木渡って前進し樹木背後から射撃するよう命令した。このやり方以前対戦したインディアン使っていたので、「インディアン・プレイ」と呼んだファーガソン3つの別々のタイミング銃剣突撃命じてシェルビー部隊撃退しようとしたが、最後植民地軍ファーガソン隊をその陣地から追い出したファーガソンとその主要な士官達は戦い負けた考え撤退試みた植民地軍ファーガソン殺せ指示されていた。セビアの兵士同時にファーガソン両腕破壊し、その頭蓋貫通して乗っていた馬から落とした指揮官倒されたのを見たイギリス兵は降伏白旗振った。 キングスマウンテンはシェルビー軍歴で最高の時であり、このことから「オールド・キングスマウンテン」という渾名貰ったノースカロライナ議会はこの功績シェルビーとセビアに感謝状を出すことを票決し両者に2挺の拳銃儀式用の剣を贈るよう命令したシェルビー1813年議会請求するまでこれらの贈り物受け取れなかった)。 植民地軍捕虜達がキングスマウンテンからの行軍始めたときに、イギリス軍がナインティシックス砦で9人の植民地軍捕虜絞首刑にしたこを知った。これはこの地域初めての出来事ではなく憤激した植民地人はカロライナではもう絞首刑やらせない誓った部隊の中から陪審員集めたがこれはノースカロライナ判事居たので合法だった。植民地人は任意に捕虜選りだし、窃盗から放火殺人までの罪で告発したその夜までに陪審員36人の捕虜有罪とし、絞首刑宣告した。しかし、最初の9人が刑に処せられた後でシェルビーはその停止命じた。その命令について理由述べなかったが、それでも命令守られ残った死刑囚」は仲間捕虜の所に戻った。 キングスマウンテンの勝者捕虜達は10月10日早くにマクドウェルの領地戻った。そこからは何人かの指揮官とその部隊が別々の道に進んだシェルビーとその部隊ダニエル・モーガン将軍部隊サウスカロライナのニュープロビデンスで合流した。そこにいる間にシェルビーモーガンにナインティシックス砦とオーガスタ占領するよう進言した。というのも、そこにいるイギリス軍チェロキー族インディアン武器供与し開拓者達を襲わせていると考えたからだった。モーガンはその作戦同意し、その地域植民地軍最高指揮官ホレイショ・ゲイツ同意したシェルビーはその作戦実行されることを確信し翌年春に300名の部隊連れて戻ってくると約束して家に戻ったモーガンはナインティシックス砦に向かう途中でイギリス軍バナスター・タールトン攻撃されカウペンスの戦い決定的な勝利を奪ったシェルビーは後に、シェルビーが家に帰った数日後ゲイツ解任したナサニエル・グリーン将軍カウペンスでの最大功績主張したという事実を悔やんだモーガンにその作戦始めるようにしたのはシェルビー作戦だった。

※この「キングスマウンテンの戦い」の解説は、「アイザック・シェルビー」の解説の一部です。
「キングスマウンテンの戦い」を含む「アイザック・シェルビー」の記事については、「アイザック・シェルビー」の概要を参照ください。

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