ルーマニア公国とは? わかりやすく解説

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ルーマニア公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/08 02:34 UTC 版)

モルダヴィア・ワラキア連合公国
Principatele Unite ale Moldovei și Țării Românești (ルーマニア語)


1859年 - 1881年
国旗国章
国歌: Marș triumfal(ルーマニア語)
凱旋行進曲

1859年のルーマニア公国の版図
公用語 ルーマニア語
言語 ハンガリー語イディッシュ語ロマ語ロシア語
ウクライナ語ドイツ語ブルガリア語
宗教 ルーマニア正教ローマ・カトリックユダヤ教
首都 ヤシブカレスト
(1859年 - 1862年)

ブカレスト
(1862年 - 1881年)
大公
1859年 - 1866年 アレクサンドル・ヨアン・クザ
1866年 - 1881年カロル1世
面積
1860年[1]123,335km²
1861年[1]130,177km²
人口
1860年[1]3,917,541人
1861年[1]4,545,821人
変遷
モルダヴィアワラキアの連合 1859年1月24日
ルーマニア公国へ改称1861年
オスマン帝国から完全に独立1878年7月9日
王政移行1881年3月14日
通貨グルデン
クロイツァー
ルーマニア・レウ(1870年以降)
現在 ルーマニア
モルドバ
 ウクライナ
ルーマニアの歴史

この記事はシリーズの一部です。
ククテニ文化 (5500 BC-2750 BC)
ダキア
ダキア戦争 (101-106)
ダキア属州 (106-c.270)
ワラキア公国 (13C末-1856)
モルダヴィア公国 (1359-1856)
トランシルヴァニア公国 (1571-1711)
ワラキア蜂起 (1821)
ルーマニア公国 (1859-1881)
ルーマニア王国 (1881-1947)
ルーマニア社会主義共和国 (1947-1989)
ルーマニア革命 (1989)
ルーマニア (1989-現在)

ルーマニア ポータル

ルーマニア公国(ルーマニアこうこく、ルーマニア語: Principatele Române)は、1859年ワラキア公国モルダヴィア公国が合併して成立した東ヨーロッパ国家である。1881年3月13日に、ルーマニア公カロル1世国王に即位して王制へ移行した。

概要

ワラキア公国モルダヴィア公国は、オスマン帝国によるヨーロッパ侵攻によって敗れたが、外交的に屈服し、オスマン帝国宗主権下の自治公国として存続することを許されていた。しかし17世紀以降は、オスマン帝国の衰退により、ヨーロッパの列強(特にロシア帝国オーストリア帝国)の干渉を受けるようになった。

19世紀に入ると、ヨーロッパにおけるオスマン帝国の更なる衰退(1817年セルビア公国の成立、1822年ギリシャ第一共和政の成立、1852年モンテネグロ公国の成立など)や欧州におけるナショナリズムの台頭もあり、ワラキアやモルダヴィアでも民族意識が形成され、ワラキア蜂起などが勃発。クリミア戦争においてロシア帝国・オスマン帝国双方が疲弊すると、連合公国として広範な自治を獲得するに至った。

名称

名称は三度変更されている。

  • 連合公国(1859年-1862年)
  • ルーマニア連合公国(1862年-1866年)
  • ルーマニア公国(1866年-1881年)

歴史

  • 1859年 - ワラキア公国とモルダヴィア公国が合併し、連合公国が成立。
  • 1861年 - 国称をルーマニア(ロマニア)公国とする。
  • 1866年 - アレクサンドル・クザ公が退位。新たな公カロルのもとで憲法発布。
  • 1877年 - 露土戦争勃発。ロシア帝国側で参戦。
  • 1878年 - ベルリン条約によりオスマン帝国から完全に独立。
  • 1881年 - カロルがルーマニア国王となり、王制へ移行(ルーマニア王国の成立)。

脚注

  1. ^ a b c d Anuarul Statistic al României 1937 si 1938 [Romanian Statistical Yearbook]. Bucharest: INSSE. (1939). p. 41 

ルーマニア公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/02 17:45 UTC 版)

賦役」の記事における「ルーマニア公国」の解説

ルーマニアでは賦役clacăと呼ばれたマルクス資本論において剰余労働分かりやすい例としてドナウ川流域諸公国の賦役制度挙げている。農民の生活に必要な労働土地所有者剰余労働として提供されるもの明確に区別される。Règlement organiqueによれば土地所有者のための労働14日であったが、実際に42日に達していた。なぜなら1日仕事は「標準的な生産量」から算出されたためである。「巨人でも24時間以内終えられないような膨大な仕事量標準的な生産量とする陰険なやり方だった。」賦役に関する規定農奴廃止することになっていたが、全く意味を成していなかった。 1864年賦役廃止する農地改革実施された。農民解放され土地所有者となったかつての所有者には基金から補償約束され農民15年基金出資しなければならなかった。年間支払い加え市場価格下回るものではあったが、新たに所有する土地のための支払い存在した多く農民はこの債務によって半農奴の生活に戻った

※この「ルーマニア公国」の解説は、「賦役」の解説の一部です。
「ルーマニア公国」を含む「賦役」の記事については、「賦役」の概要を参照ください。

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