リトアニア第一共和国および中部リトアニア共和国
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「リトアニアの歴史」の記事における「リトアニア第一共和国および中部リトアニア共和国」の解説
独立宣言後も諸外国との戦いが続けられたが(リトアニア独立戦争(英語版))、1920年、リトアニア共和国として民族自決による独立が諸外国から承認される。1920年には制憲議会(リトアニア語版)が招集された。 ポーランド・ソビエト戦争においてソビエトは、1920年5月にリトアニアに対する権利を永久に放棄し、リトアニアの独立と主権を承認した。 1920年7月12日にリトアニアはロシアと講和条約を結んだが、第二条付録でロシアとポーランドの戦争中に赤軍がリトアニア領を通過することを敵対行為とはみなされないとされた。これにより、赤軍は1920年7月14日、ヴィリニュスを占領した。さらにロシアのボルシェビキは、1920年8月には偽の身分証明書を持った秘密工作員2000人をリトアニア国内へ派遣し、反乱の準備を進めた。だが、赤軍がワルシャワの戦いで敗北したことで反乱計画は中止された。 1920年10月7日には合意文書が調印されヴィリニュス地域はリトアニア領であるとされたものの、その翌日にはポーランド軍によって侵攻され、そのままポーランドに占領された。その後この地域には緩衝国家の中部リトアニア共和国が建国されるも、1922年にポーランドに編入された。そのためリトアニア共和国の首都は憲法上はヴィリニュスと明記しつつも、カウナスが臨時首都とされた。この状況はその後1939年まで続いた。 戦間期リトアニアにおいては、リトアニア・キリスト教民主党、リトアニア農民人民連合、リトアニア社会民主党の3党が主要政党となった。このうち最大党派はキリスト教民主党で、保守的な農民層を支持母体としていた。農民人民連合もまた農民層を支持層としていたものの、キリスト教的価値観を重んじるキリスト教民主党とは異なり、世俗的な政策を掲げた。社会民主党は都市労働者や知識人から支持されていたが、規模はそれほど大きくはなかった。このほか、ユダヤ人政党やポーランド人政党も存在した。 しかしリトアニア共和国では議会制民主主義体制は長くは続かず、1926年12月16日に軍部によるクーデターが勃発。初代大統領アンターナス・スメトナによる権威主義体制が成立した。1927年には政府に対する蜂起がタウラゲで起きたが、鎮圧された(タウラゲ蜂起)。1928年、スメトナは憲法を改正して自らの権力を強化した。新憲法により大統領の任期は7年となった。スメトナ体制においてはアウグスティナス・ヴォルデマラスが首相に就いたが、次第に両者は対立するようになっていった。1929年、スメトナはヴォルデマラスを解任し、スメトナの義弟であるユオザス・トゥーベリス(リトアニア語版)を首相に任命した。 1938年までリトアニアとポーランドの国交は断絶状態にあったが、1938年3月17日、ポーランド政府はリトアニアに外交関係の樹立を求める最後通牒を突きつけた。リトアニア政府は19日、これを受諾した。 1939年3月、リトアニアはナチス・ドイツの干渉によってバルト海の港湾都市メーメルを失う。更に同年アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書で、ソ連がバルト三国やフィンランドを勢力圏に入れることが合意された。 1939年9月1日にドイツ、スロヴァキア、ソ連の3ヶ国がポーランドを侵略し、リトアニアはこれに乗じてヴィリニュス地方をポーランドから奪い取り占領した。
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