ラオスへの復帰: 1957年-1959年
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1953年フランス・ラオス友好条約締結後、ラオス王国の完全独立が認められた後、ラオスは右派と左派及び中立派の争いで混乱したが、1956年頃から和解の気運が見られるようになり、1956年3月21日、弟スワンナ・プーマが民族和解と中立主義を掲げ首相に就任、同年7月31日より、プーマ首相は、共産勢力パテート・ラーオ代表を務める異母弟スパーヌウォンとの間で、パテート・ラーオの王国政府への統合について、交渉を始めた。交渉の進展により、同年末までに、いくつかの合意が成立した。この環境下、ペッサラートの亡命からの帰還が企図された。 1957年3月、熱狂的な歓迎を受けビエンチャンに帰還、同年4月10日、ルアンパバーンを訪れた際には、市民・官吏・警官・軍人の膨大な群衆に迎えられた。4月16日シーサワーンウォン国王に表敬訪問を行い、そこで、副王の地位を回復した。12月にはサムヌアとポンサーリーを訪問している。これは、この地域が、スパーヌウォンの指揮するパテート・ラーオの本拠地であり、それがラオス政権に統合されたことを象徴するものであった。 ビエンチャンの公邸に居住することを勧められたが、彼は、ルアンパバーンの邸宅で、タイ人の妻モム・アピポーンとともに過ごすことを好んだ。1959年10月初頭プイ・サナニコーン(英語版)政権はペッサラートのビエンチャン公邸を新首相官邸に転用することとし、それを接収すると、ペッサラートの私物を船でルアンパバーンに送った。そのことは、非常に彼を動揺させ、10月14日脳内出血で倒れ入院、フランス人医師による手術を受けるも、手遅れとなり、意識を回復することなく69歳で没した。 彼の世俗的な人気と一種の神霊力(サクシット)から、多くのラオスの民衆は、家に彼の肖像を掲げている。
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